Track 9

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 パウ子は聖焼きそばを求めてシンガポールへ旅立った。  シンガポールへ行くことは前々から決めていたそうで、出発までの期間を用いる形でこの店でアルバイトとして働いていたようだ。店長は面接の際にそういった話を聞いたような気がして朧げに記憶を掘り起こしたが、やはり気のせいかもしれないのでそっと埋め直した。  思い出すことに思考力を割いたあげく思い出せない事柄は自分にとって不要な記憶であり、思い出すことに思考力を割いて結局思い出せる事柄もまた、不要な記憶である。というのが、店長の持論だった。本当に必要な記憶は、思い出す決心をせずともいつの間にか思考に割り込んでいる。  店長はシンガポールというワードから水を吐いているライオンをひたすら連想したが、聖焼きそばというワードからは連想すら起こらなかった。  それ以来、パンを捏ねている最中に『聖焼きそば』という言葉だけがふと浮かんでくることがあり、店長はその度に脳内で孤立した言葉をゆらゆらと漂わせる。  深い詮索はしなかったので、未だに何の連想も起こらない。  ただ、聖焼きそばはパウ子にとって必要なものであるようだった。向こうに骨を埋める可能性もあるとのことで、とにかくその必要性だけは窺えた。  パウ子が日本を去ってから三月ほど経過したが、相変わらず店は流行らず廃れずの生殺し経営で、新たな従業員を雇わずとも店長はなんとか一人でやれている。  ふとももパンは商品として店に並べてあるが、それがきっかけで繁盛するといったこともなく、ふとももパンはすっかり店の陳列に溶け込んだ。  旅立つ直前、パウ子は店長に一枚の紙を手渡した。手渡したきり何のアクションも無いので、ゴミ捨ての引き継ぎ役にされたのかと思った店長がクズかごに捨てようとしたところ、パウ子に冷酷の極みといった表情で睨まれてしまった。  すんでのところで紙をポケットに収めた店長は、紙の代わりにパンを渡せるだけ渡した。出来るだけ保存が利くように焼いたパン。  向こうで現地の焼きそばなり何なりを挟めるように淡泊に焼き上げたパンだったが、店長はそのことをうっかり伝え忘れたので、彼女は向こうで味の無いパンを噛んでいるかもしれなかった。  パウ子から手渡された紙には短い文字の塊が記されていた。  川名岬という文字の塊がやんわりと記憶の網に掛かる。店長はそれがベーキングパウ子の本名であることを知っていた。  パウ子の口からその名を聞いたことはないが、店に保管してある履歴書の名前欄にも同じ文字の塊が記されているので、経歴を詐称していない限り、川名岬はパウ子の本名に相違ないと店長は判断した。  試しに彼女を川名さんと呼んでみたところ、川名さんは雲隠れするようにサッとその場から消えた。  ちなみに、岬さんと呼んだ場合も同じ反応であった。  天使と堕天使の区別もついていなかったパウ子のことであるから、本名を知られると呪詛の対象にされるとか、クローンを造られるとか、そういう迷信じみた思想を持っているのかもしれないと店長は考え、自分なりの納得をつけた。  いずれにせよ、この文字の塊をわざわざ紙に記して渡してきたということは、パウ子にとっては必要なことだったのだろう。   必要という言葉はそれを構成している二つの漢字からして物々しく、この言葉が来たら最早逃げ場無しといった感じの圧迫感を受けるが、実際はそれほど大した言葉でもないということに店長は最近気付いた。その対象に意味や価値があるか否かに関わらず、人にはそれぞれ必要なものがあるのだと店長は感じている。  そして乾いた音を立てて滅多に鳴らないドアベルが鳴る。  店長にとって必要なものがパンであるかどうかは定かではないが、少なくともこのドアベルの音色は、店長の耳に快く響いているようだった。

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