プロローグ
1766年、ロンドン。
若き孤高の天才科学者ヘンリー・キャベンディッシュに、終焉の時が迫りつつあった。
動悸が止まない、脈拍は全身を打つように激しく、足元は波間に揺れる船のように不確かで、何かに掴まっていなければ立っている事すらままならなかった。
「人工空気に関する実験についての3つの論文」、王立協会での初の論文発表がもう明日だというのに。
このままでは、とてもその場に立てそうにない。
未完に終わるやも知れぬ発表に思いを巡らせる。
それは挑戦的な研究であった。
この研究は多くの称賛と批判とを巻き起こし、質問者は列をなし、『哲学会報』にも掲載され後世にまで知られるであろう。
彼に向けられる知識人達の数多の視線。
それを想像しただけで嘔吐しそうになったが、好物のマトンも今朝は喉を通らなかったのが幸いした。
もし吐いてしまっていたら、メイドを呼んで清掃を命じねばならなかったであろう。
メイドに会うという苦痛を回避できたのは、不幸中の幸いと言わねばなるまい。
ヘンリー・キャベンディッシュ、そう彼は良く言えば孤高であった。
端的に言ってしまえば、人付き合いというものが、とてもとても、とても苦手であった。
頼りない息子の姿を見慣れているはずの父も、さすがに見かねたようで彼に医者へ行くように促した。
曰く、「腕のたつ医者が居る。しかし、この件は他言無用だ」と。
そして、「もっとも、お前が人に話せるようなら苦労はしないのだが……」とため息混じりに口ごもった。
他にも何やら言っていたようだが、キャベンディッシュの優秀な頭脳は発表の恐怖を際限なく増大させる事に費やされており、耳に入らなかった。
この恐怖から解放してくれるならば何だっていい、彼は、藁にもすがる思いだった。
馭者に顔も合わせず、父が用意した馬車に乗り込んだ。
「キャベンディッシュ」、それは名家の中の名家、デヴォンシャー公爵家の家名である。
それに名を連ねる者が、医者を呼びつけず、自ら赴かねばならない理由とは一体何であろうか?
向かった先は、親類の別邸。
そして、彼は吸血鬼の少女と出会う。