◆トラック1:awaking
お目覚めですか、マスター。
おはようございます。
よくお眠りだったようですね。入眠から起床まで、およそ8時間。理想的な睡眠時間です。
本船はつい先程、ワームホールを無事通過しました。現在はワープドライブから通常の航行に操縦を切り替え、目的の座標を目指し進んでいます。お休み前にお伝えしていた通りの進捗状況です。何も問題はありません。
また、そのほかの報告事項も特にありません。予定外の成果もなければ、新たなトラブルの種もなく。私達の旅は、平穏、そのものです。
要するに、いつも通り、ということですね。
マスター?
どうかしましたか?
なんだか、ぼうっとしているようですが。
まだ頭が完全に覚醒していないのですね。さては、何か夢でも見ていたのではないですか?
まるで、今まで何処かの惑星に居たのに、突然、宇宙船の中で目を覚ましたかのような、そんな顔をされています。
つまり、俗に言う「寝惚けている」という状態ではないかと見受けられます。無論、そういった感覚は私には存在しませんので、知識としてしか知り得ませんが。
ちなみにですが。最後に惑星へ立ち寄ったのはもう随分と前のことですよ、マスター。
マスター?
聴こえていますか?
……なんだか様子がおかしいですね。
マスター、無理に起き上がらず、そのままの姿勢で少々お待ち下さい。操縦をオートに切り替え、そちらに向かいます。
お待たせしました。
大丈夫ですか、マスター?
気分はいかがですか? どこか具合の悪いところはありませんか?
顔色も悪くないですし、特に目立った症状があるようには見えませんが……ワープドライブの直後ですから、少し気になりますね。
ワームホールを利用したワープドライブは、本来、生体に大きな負荷がかかる移動法です。特殊な訓練課程を修めた人間か、あるいは何か特別な事情などでワームホールに適性を有する生命体でもない限り、生身の肉体は様々なリスクに晒されてしまいます。
例えば記憶障害などは、想定されるリスクの中で最も代表的なものです。
ただ、本船の技術水準とマスターの体質を考慮すれば、まず健康面での被害などは起こり得ないはずなのですが……
少し、テストをしてみましょうか。
記憶に欠損がないことを確認します。
私の手を握って下さい。脈拍や血圧、筋肉の動きで診断を行います。
目を閉じ、リラックスして、自身の記憶と照らし合わせながら、私の声を聞いて下さい。
私はエリー。この船に配備された、宇宙航行汎用支援型ヒューマノイドです。サポートロイド、という呼称で呼ばれるタイプのアンドロイドですね。
宇宙船の操縦や船内の整備、航行レポートの記録、船のレーダー類の解析など、宇宙船内での活動を全面的にサポートする役割を担っています。また、惑星着陸時には、船外活動および探索行動の遠隔支援、それに、セクサロイド機能を用いての性処理なども可能です。
本船は、宇宙空間における超長期漂流を実現するため設計された、特別仕様の宇宙船です。マスターご自身が掲げた、たった一つの目的のために、ただこの一機だけが制作されました。それから我々は、非常に永い歳月を、この船の中で共に過ごしてきたのです。
私達はある惑星を探して旅をしています。それは、宇宙の何処に存在しているのかも分からない星です。そもそも、その星が本当に実在するかどうかも、定かではありません。あるいは仮に実在したとして、今もその星がまだ、一つの惑星として生きていると言えるかどうかも、分かりません。
元々私は心と感情を持たないヒューマノイドでした。よって、冒険心や好奇心というものも、私には存在しません。当然と言えば当然です。喜怒哀楽すら知識としてしか知らなかった私にとって、そういった極めて人間的な感情は遥かに理解を超える代物なのですから。
ですが、マスターと永く旅を続けるうちに……マスターが一体、何に焦がれているのか、どのような夢を見て、その星を探しているのか。少しずつ分かってきたような気がします。マスターが私に、教えてくれたのです。感情というもの。人の心というもの。
そして、愛情というもの、ですね。
ふふっ。どうされました、マスター? 面と向かって愛情などと言われて、赤面してしまいましたか? それは失礼いたしました。
その様子と反応を見る限り、特に重大な脳機能の障害がある訳ではなさそうですね。
せっかくなので、もう少し……そうですね、例えば、恥ずかしい昔話など、思い出してみますか? おや、結構ですか。それは残念です。情動能力、記憶能力の確認として悪くない方法だと思ったのですが。それにマスターは、私にからかわれるのが嫌いではないようですので。
まぁこれだけ永くお仕えすれば、たとえ感情や心がなくとも、どんなことを言えば喜んでいただけるのかも分かるというものです。
ということで、マスターの命令があれば、いつでも喜んでもらえるようなことを言いますが……ふふっ、どうされます?
血圧、脈拍、僅かながら上昇を確認。もう。妙な反応をしないでください。マスター。
診断結果です。身体の反応から推測するに、記憶に多少の混濁が見られるものの、脳機能については概ね異常なし。総合的には要経過観察といったところでしょうか。
流石に、完全に問題なしとは言い切れませんね。所々、記憶に小規模な欠落や混乱があったのではありませんか?
まぁ……もう随分と永い間、旅をしてきましたから。無理もないことなのかもしれません。
さて、マスターの状態も確認できたことですので、私はこれから船内設備の定期点検をします。現在の航路なら、船の操縦はしばらくオートドライブで大丈夫です。何かレーダーに反応があればアラートが作動しますので、マスターは目視でモニターの確認でもしていただければと思います。
ですので、マスター。手を放して下さいますか?
……血圧、脈拍共に上昇を感知しました。
あの、マスター? これは診断のために手を握っただけであって、そのように高密度なコミュニケーションをするためではありません。
いえ。嫌とか、そういうことではなくて。そもそも好き嫌いという感情も私には存在しませんので。だから、あの……
(キス)
ん……サポートロイドの航行支援を邪魔するなんて、マスターは本当にマスターとしての自覚があるのですか?
お気持ちは分かりましたから、船内の点検に……
(キス)
分かりました。とにかく、私に好きと言わせたいのですね。
言えば満足して下さいますか?
はい。マスター。好きです。
マスター。これは一体どういうことですか、余計に事態が悪化しました。何故、私は抱きしめられているのでしょうか。何故、マスターの脈拍はまた上昇しているのでしょうか。
マスター。答えてください。ます……
(キス)
……話している最中にキスで唇を塞ぐなんて、よくそんなことが恥ずかしげもなくできますね。人間はそういう破廉恥な行為をためらうものだと私は学習しましたが、マスターは例外なのでしょうか。
船内の点検はもう後回しでいいです。現在、マスターの傍に仕えるよう、強い要請を受けていますので。ええ、まさにこの状態のことです。
まったく、仕方ありませんね。
あの、マスター。もっと、抱きしめてくれませんか?
いや、別に深い意味はないのですが。
そうです、これはつまり、度重なる抱擁によって、マスターに学習させられたのです。勘違いしないで下さい。私の意志ではありません。そのような欲求も感情も私にはありません。こう言えばマスターが喜ぶと学習してしまった結果です。
ということで、マスター。
もっと、ギュッてして下さい。
ん……はい。ありがとうございます。
フフ。抱き締められれば、抱き締め返すものだということも、学習いたしました。
マスター、これでいいですか?
まったく、マスターも物好きですね。人間がヒューマノイドに一時的な恋愛感情を抱くこと自体はよくある話で、私としても想定の範囲内でしたが、これほど永い間、一途に愛されてしまうとは思ってもみませんでした。人間の感情とはもっと気まぐれで刹那的なものだと学んでいたのですが。あの学習データはデタラメもいいところです。
マスター。人間は退屈する生き物らしいですね。私には縁のない感覚ですが、知識としては知っています。気の遠くなるような長い時間、宇宙を漂流するマスターにとって、これほど深刻な問題もないでしょう。
一体どれぐらいの時間を、こうして二人で過ごしてきたでしょう。見当もつきません。流石に記録にも残しておりません。残す必要もありませんからね。きっとこの先、たとえ何万年経とうと、マスターは私を同じように愛してくださるのでしょう。
人間にとって、愛する者と過ごす時間は他の何かに代えがたい至上のものだと認識しております。つまり私は、退屈と向き合わなければならないマスターの心を、一番理想的な形でサポート出来ているということではないでしょうか。日頃の何気ないコミュニケーションから、このように二人で身を寄せ合う瞬間まで。これらをマスターが幸福と感じて下さるのは、サポートロイドである私にとって何よりのことです。
何処までもマスターにお仕えし、マスターのお役に立つこと。これは私の任務です。任務を遂行できることで、満たされたような、安心するような、不思議な心地になります。私が人であれば、これを幸せと表現できるのかもしれませんね。
まぁ、とにかく、です。今は……
(キス)
今は、こうしてマスターの愛にお応えすることが、私の任務です。
船内の点検は……少しだけ、延期することにします。