9.2 その後……
9.2
「その後……」
パジャマを整えた俺は、再び布団を被る。
隣に横になる優衣は楽しそうに話をする。
【優衣】
「どうだった? 気持ちよかった?」
【兄】
「……気持ちよかったから出したんですが」
【優衣】
「あら、もういつものぶっきらぼうな兄さんに戻っちゃった」
いつまでも醜態を晒す気はない。
もっとも、逸物が落ち着いて熱が冷めれば、気持ちも自然と落ち着
いてくるわけだが。
【優衣】
「なーんだ、つまんないわねー。
せっかく素直で従順な兄さんを見れたっていうのに」
【優衣】
「もうちょっと感謝の言葉を述べてもいいんじゃない?
私がいてあげるお陰で、恋人同士のようなことができてるのよ?」
【優衣】
「私がその気になれば、もう添い寝もしてあげないんだから」
【兄】
「……それは俺の要求じゃないよな」
【優衣】
「えー?」
おどけるような声を出して、もぞもぞと上体を近づけてくる。
【優衣】
「……くすっ、ウソツキ」
【優衣】
「添い寝だって、兄さんにとっては嬉しいくせに」
【兄】
「そんなこと言ったか?」
【優衣】
「恋人のような行為は、ぜーんぶ嬉しいんでしょ?
たとえ相手が妹であっても、肉体が女性なら……ね」
【優衣】
「してるのを見てあげるのだって、手でしてあげるのだって……口で
してあげるのだって。全部恋人のすることじゃない?」
【優衣】
「添い寝だって……普通は恋人同士でしかしないものでしょう?」
【兄】
「……兄妹ならするんじゃないか?」
【優衣】
「え。……あー……確かに、そうね。
兄妹なら添い寝くらいする……かしら」
【兄】
「ほらみろ。別に恋人ごっこの行為じゃない」
【優衣】
「んふふー♪ じゃあ、私が兄さんと添い寝しちゃいけない理由はな
いってことねー」
【兄】
「あ? 全然違う」
【優衣】
「違わないわー。自分で言ったことを否定しなーいのっ」
【兄】
「歳! 歳が問題なの」
【優衣】
「ごちゃごちゃ難癖付けないで。……もうしてあげないゾ?」
【兄】
「……ハイ」
【優衣】
「ん、よろしい」
ピロートークは終了とばかりに、腕に抱き付いてくる。
半ば習慣付いてしまったな。
前までの添い寝は、本当にただ隣で寝るだけだったのに。
こうして腕に抱き付かれては、兄妹の添い寝じゃなくて恋人同士の
添い寝っていうのを否定できない。
【優衣】
「……あまり、深く考えないほうがいいわ」
【兄】
「……何をだ」
【優衣】
「今の関係。私たちのしてること」
【兄】
「あー……」
【優衣】
「倫理観とか道徳観とか……前にも言ったけど、それは公に対しての
ものだから」
【優衣】
「内輪……、……二人だけの秘密ってことにすれば、なにも問題はな
いの」
【優衣】
「誰にも迷惑を掛けなければいいの。誰かに迷惑を掛けないための、
倫理や道徳なんだから」
【兄】
「……お前はさ」
【優衣】
「……」
【兄】
「お前は、どういう気持ちでしてくれてるんだ?」
【兄】
「お前は賢い。俺の妹とは思えないくらい、聡明で頭が回る」
それはどうも、と軽く流される。
【優衣】
「……私は」
しばしの間。
【優衣】
「私は……最初は好奇心からだったの」
【優衣】
「人間って、同じ種であるのに男女という違う肉体を持ってる。
それぞれに異なる特徴があって、異なる事情を持ってる」
【優衣】
「私にとって、その……男性の象徴っていうのは……未知なる部分だ
ったから」
【優衣】
「いくら授業で習っても、机上の空論のような気がして……ね」
【優衣】
「でも、体験してる友達は当たり前のようにいて……自分も将来的に
は経験するんだろうと思っても……絵空事のように思えて……」
【優衣】
「いつかは自分にも好きな人ができて、恋人ができて……否が応でも
真実を知る日が来るのだろうと思っていたけど……」
【優衣】
「やっぱり、あまりその未来を想像できなかったの」
【優衣】
「そんなのときに、兄さんが……私に、……反応しちゃったときに」
【優衣】
「すっごく遠い存在だったと思ってたものが、すっごく身近にあった
ことに気付いて」
【優衣】
「これは……チャンスかもしれない、って。
……最初は、そういう好奇心からだった」
こいつは昔から興味を持ったことに対しては一直線だった。
小さいころは、その猪突猛進っぷりが勝り、自分自身を蔑ろにする
傾向もあったくらいだ。
その危なっかしさが故に、家の中では俺がずっと傍にいた。
優衣が大きくなって取捨選択ができるようになってからは、持ち前
の好奇心を振りかざしてどんどんと知恵を蓄えていった。
考えることを始めた優衣は、それはもう自慢の妹と呼べるものに成
長していた。
しかし、充分に成長した女の子になっても、優衣には異性の影が全
くなかった。
物の分別がつく前まで俺が付きっきりで面倒を見ていたせいかもし
れない。
あれがなければ、優衣は異性への興味に突っ走り、公園の裏にでも
男児を連れ込んでズボンをひん剥いていたかもしれなかった。
そう思うと、俺のしたことは悪いことではないとも思えるが、優衣
としてはどうだろう。
異性の体への興味は、幼いころにすでに失っているべきだったのか
もしれない。
そうすれば、大きく成長した今になって、異性への衝動的な好奇心
に駆られることもなかったろう。
【優衣】
「でも、いまは……」
考えをまとめようとしているのか、幾ばくか唸った。
【優衣】
「……いまは、好奇心…………だけじゃ、ない」
【兄】
「それは……つまり?」
【優衣】
「……よくわからない」
わからない、ときたか。
【優衣】
「わからないけど、兄さんの傍にいると安心する……というか。
……私、兄さんの匂いが好きだから、たぶんそのせいだと思う」
【優衣】
「あと、兄さんの気持ちよさそうな……余裕がなくなった顔を見るの
が、実は好きで……。なんか、手玉を取った気になれるじゃない?
兄さんってば、何かと自分のほうが歳が上だからーって偉そうな態
度取ってるから……上位に立てる感じがあるし」
【優衣】
「代替彼女とか言って、独り身の兄さんのために彼女の代わりをして
あげようってしたのも……本当はちょっとした出来心、っていうか
……。ちょっと私も楽しんでたから、罪悪感を覚えてるみたいな兄
さんの気持ちが和らげばいいなと思って、ね」
【優衣】
「あと、…………あぁ、説明しづらいっ。一番重要な理由があるんだ
けど……なんていうか……これがよくわからないって言った理由で
もあるんだけど」
【優衣】
「……してるとき、兄さんの顔を見てると……なんでかわからない、
なんでかはわからないんだけどっ! ……胸の奥がぐぐ~って痛む
の」
【優衣】
「痛いんだけど、なんかクセになる感覚……? で、痛くなるタイミ
ングがまだ分析し切れていないんだけど……、痛くなったら……す
ごく……うわぁ、もうよくわからないんだけどっ、……兄さんを抱
き締めたくなってっ」
【優衣】
「よくわからないのっ! よくわからないけど……兄さんとしてると
きに決まって起こるから、何かの病気? ってことはないと思う。
……たぶん。……医者じゃないからよくわからないけれど」
【優衣】
「はぁぁ……もう全然わからない。何なのかしら、これ……。
今まで生きてきてこんな感覚を持ったことないし、みんなも『昨日
胸が痛くなってー』みたいな話はしてたことないし……」
【優衣】
「物理的に心臓が鷲掴みにされたみたいな感覚なのよね。あと、ちょ
っと泣きそうにもなる……。うぅ~……なにかの精神病かしら……」
【優衣】
「……兄さんならわかる?」
息継ぎ早に言い終えると、質問してきた。
【兄】
「えー……っと」
何て答えたものだろう。
まず知っているかどうか答えるべきだろう。
じゃあ『知っている』と答えた場合、どうなる?
優衣のことだ、教えるまで絶対に寝かせないはずだ。
だが、教えることは絶対的にできない。
絶対に。
となると、俺にできることは一つだけで。
【兄】
「……わからん」
【優衣】
「……そう。……もしかしたら、兄さんならわかるかもって思ったん
だけど……。やっぱり駄目、か」
【兄】
「……」
優衣は俺の表情や仕草から気持ちを読み取る。
絶対に顔には出してはならない。
声も出すべきじゃないだろう。
どこから俺の真意を読み取ろうとするかわからない。
下手すると、心拍から嘘かどうか見抜くこともしでかしそうだ。
【優衣】
「……病院に行ったほうがいいと思う?」
【兄】
「は、病院?」
【優衣】
「体の不調はやっぱりお医者さんでしょ。……それか、お母さんに一
度相談してみようかしら」
【兄】
「いやいや……」
【兄】
「第一、なんて相談するんだ?」
【優衣】
「え。……そりゃ、『胸が痛むんだけど』って」
【兄】
「どんなときに、って訊かれたら?」
【優衣】
「どんなときにって訊かれたら、……えぇと」
思案する。
【優衣】
「兄さんと……」
【兄】
「……言うのか」
【優衣】
「う、ぐ」
【兄】
「無理だろ?」
【優衣】
「……大丈夫、兄さんのことや、兄さんとしてることは隠して相談す
る」
【兄】
「まあ、それなら……」
いや、待て。
そこで母さんが馬鹿正直に『まあ! それはめでたいわ!』と答え
を教えてしまうかもしれん。
それだけは駄目だ。優衣が実の兄を……す、好……。
【兄】
「ぐあぁぁぁあ……」
【優衣】
「ど、どうしたの。いきなり悶えて」
考えるだけでおかしくなりそうだ。
なんでまた、俺なんかを……。
しかも、論理的に考えて好意を持ったわけじゃなく、心の奥底で勝
手に芽生えた恋心。
感情が先行するなんて、全くもって優衣らしくない。
だからこそ、優衣は戸惑っている。
頭よりも心が心身を占領していることに底知れぬ不安を覚えている
んだ。
もし自分の気持ちに気付いたら、こいつはどうするんだろうか。
見てみたくもあるが、叶わせてはならない願いだろう。
ホント……なんでよりによって俺なんだ……。
【兄】
「母さんに相談するのはやめとけ」
【優衣】
「……? お母さんに相談しちゃ駄目なの?」
【兄】
「母親とは総じて勘が良い」
【兄】
「お前の詐欺師としての素質を疑うわけじゃないが、わざわざ危険な
橋を渡る必要はない」
【優衣】
「う……。それもそうね」
【優衣】
「お母さんの勘の良さは末恐ろしいものがあるわ。
あれも一つの神秘ね」
【兄】
「それには同意する」
【兄】
「……実は、心当たりがないわけじゃない」
【優衣】
「えっ、心当たりがある……って、胸の痛みについて?」
頷く。
【兄】
「俺の友人に似たようなことを言ってたやつがいた」
【優衣】
「兄さんの友達に……。じゃ、じゃあっ、その人と会わせて!
詳しく聞きたいの!」
行動派過ぎる!
【兄】
「い、いや、待て。そいつは女性恐怖症でな」
【優衣】
「女性恐怖症……? そんな人、現実にいるのね……」
【兄】
「まあというわけで、俺が聞いてくるから」
【兄】
「違う学校に通ってるし、なかなか時間も取れないみたいだが……気
長に待っててくれ」
【優衣】
「うん、わかった。話を聞くのは兄さんに任せる」
【優衣】
「返事を貰ったらすぐに教えてよ?
夜も眠れないくらい困ってるんだから」
そんなに悩んでたのか。
初めての感情なら無理もないかもしれない。
感情を説明する言葉は知っていても、その感情とリンクすることが
できるかは人生経験次第だ。
優衣には、リンクさせるほどの知恵と経験がないんだろう。
有り難くも思えるし、可哀想だなとも思う。
優衣は視線をあらぬ方向に向けながら、ううむと唸っていた。
【優衣】
「女性恐怖症で、兄さんの友達……ってことは、
……ゲイ仲間?」
【兄】
「返し言葉の角度がえぐ過ぎてついていけんわ」
【優衣】
「だって、兄さんはゲイ……」
【兄】
「じゃないです」
【優衣】
「でも、今まで彼女を作ったこと……」
【兄】
「あります」
【優衣】
「え」
【兄】
「……あ」
【優衣】
「あるの……?」
【兄】
「い、いや、嘘。思わず口走っただけ」
【優衣】
「彼女……? 嘘……私、そんなの聞いてない」
【兄】
「冗談だって。イッツァ・ジョーク、HAHAH――」
愛想笑いをしながら視線を外そうとして、肩を掴まれる。
【優衣】
「兄さんっ! …………ちゃんと答えて」
【優衣】
「彼女……いたこと、あるの……?」
【兄】
「だから、ただの冗談で――」
【優衣】
「兄さんっ!!」
【兄】
「ちょ、声でか」
きつく眉を寄せてるのが暗闇でもよく解った。
見たことがないくらいに真剣な顔。
どうしたんだ。こんな冗談、いつもなら軽く受け流してくれるはず。
優衣は俺の本意を汲み取るのがずば抜けて上手い。
俺の考えていることなんて、お見通しのはずなのに。
どうしてだ。
どうして、泣いてるんだ。
【優衣】
「……あ」
お互いに生じた微妙な空気の違いに気付いたのか、ぱっと手を放し
た。
【優衣】
「ご、ごめんなさい。大きな声を出して」
優衣が一つ瞬きをすると、ついっと涙が溢れた。
【優衣】
「あ、あれ? なんで……。欠伸したかな……。
あはは、は……涙が出るとか、おっかしー」
目を擦りながら笑う。
【兄】
「……もう寝よう」
【兄】
「疲れてるんだ。夜も遅いし」
【優衣】
「…………そ、そうね……。うん、わかった。もう寝ましょうか」
もう夜も遅い。
優衣も俺の提案を拒むことはなく、むしろ放っておいてくれたこと
を感謝してるかのようだった。
天井を向こうとして、やめた。
ちゃんと眠るのか不安だったからだ。
暗闇の中で優衣は、目を瞑るのと薄く開くのを繰り返し、なかなか
寝ようとしない。
瞳をクリクリと動かし、視点も定まっていない。
【優衣】
「あの……兄さん」
不安そうに口を開く。
胸の内を語るように。
【優衣】
「いま……いまね……。兄さんが……彼女のことを言ったとき、
また、胸がきゅぅーって……」
【兄】
「わかった」
【兄】
「……わかったから」
頭を撫でる。
【兄】
「もう寝よう?」
【優衣】
「ぁ……」
【優衣】
「う、うん……」
今度こそ、優衣は目を閉じた。
【優衣】
「おやすみなさい……兄さん」
不安そうな顔で目蓋を閉じる優衣を見つめる。
優衣には何も悩まずに過ごしてほしい。
好意という感情に対して無知にさせてしまったのは、異性から離し
すぎた俺の原因でもある。
悩むのは俺だけでいい。
こうなってしまったからには、優衣にはずっと無知のままでいても
らうしかない。
今の感情と好意とを結びつける『きっかけ』と、彼女が出会うまで。
それまでに、この問題は解決しなくてはならない。
優衣の寝顔を見つめる。
少しは大人びてきたが、まだ無邪気さの残る顔付き。
ふと視線は唇に止まる。
つい先ほどまで、この唇は俺の……。
【兄】
「……」
理性ではわかっている。
優衣の感情を落ち着かせる方法は、もう二度とこんな関係を絶ち、
普通の兄妹に戻ることしかない。
しかし、優衣の唇を見るだけで疼く身体……
そして何より……優衣の感情を思うと、止めるに止められない。
優衣のことを思えば思うほど、優衣のために関係を絶とうと意気込
む心を引き留めてしまう。
……面倒なことになってしまった。
ただただ快感に耽るだけでは終わらせてくれないようだ。
道徳に反した者には、それ相応の報いでもあるんだろうか。
……罰は、受けないといけないな。
END