Track 5

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第五夜

<左 普通> 目に映るは、抜けるような空の蒼と、褪せた砂の白と。 その狭間で、陽炎とラクダの足並みに、懐かしの海の如く揺れる地平線は遥か。 あれから遠くに来たものです。 錬金術師の心は晴れませんでした。 漁師だった頃、貧しさを嘆く事はあっても、そこにはささやかながら幸せがありました、穏やかさがありました。 海中の色鮮やかな世界に心ときめかせ、網を打って、成果に一喜一憂する。 日々の糧に喜び、稀に採れる真珠の一粒にアッラーへの感謝を唱えたものです。 ひと月も経っていないのですが、そんな生活がずいぶん前の事の様に思われます。 あの頃は良かった、どこで歯車が狂ってしまったのか。 横に目をやると、ニマニマと笑う魔神の姿が。 そうです、海でこの魔神の入った壺を引き上げた時からです。 「お前は、俺を幸せにするのではなかったか?」 錬金術師は、魔神に問いかけました。 <右 近い 囁き> 「ええ、誓いましたとも、ワッラ、アッラーにかけて誓いましたとも。 ですから、今、旦那はこうして財宝に囲まれているじゃありませんか」 <左 普通> 魔神の言う通り、金があります、ラクダがあります、宝石があります、何よりも懐には賢者の石が。 かつて、妻と手を取り喜び合った三粒の真珠とは、比べ物にならない財宝があります。 しかし、心はこの荒涼とした砂漠の様で、あるのはやるせなさだけでした。 魔神は、そんな気持ちを知ってか知らずかはやし立てます。 <右 近い 囁き> 「次はどうしましょうか? 山を一つ金にしましょうか? 海の水を水晶にしましょうか? 旦那には、それだけのお力がございます」 <左 普通> 魔神は、そう言って錬金術師の懐に手を置きました。 賢者の石が肌を押す、暖かくも冷たくもない無機質な感触がひどく神経に障りました。 「もういい、もうやめてくれ」 錬金術師は、魔神の手を払いのけました。 その様子に魔神は、ニヤリと笑いました。 機は熟したのです。 <右 近い 囁き> 「ねえ、旦那。 もしかして旦那は、こう思っているんじゃありませんか? どうしてこれだけのお宝に囲まれているのに、ちっとも幸せじゃないんだろう、って。 ふふっ、それはですね、旦那。 幸せというのは、心で感じるものだからですよ。 初めて鍋一杯の鉛を金に変えた時は、どうでしたか? これで豊かな生活ができるって、幸せだったんじゃありませんか? 乞食の脚を治してやった時は、どうでしたか? 人に喜ばれる善い事をしたと、誇らしかったのではありませんか? でも、あの乞食の奴、とんだ恩知らずでございましたね。 大恩ある旦那を、あろう事か杖で殴るだなんて。 お優しい旦那のことですから、体より心が痛んだんじゃないですか? 俺は人を苦しめる悪い事をしてしまったのでは、なんて。 その後、城に連れて行かれて、王様に認められましたね。 旦那、嬉しそうにされてましたね。 そりゃあ、王様なんて偉い人に、必要とされれば、俺は価値のある人間だって思えたでしょうからねぇ。 でも、あのマムルークはいけ好かない奴でしたね。 旦那の作ったゴーレムなんて必要無いだなんて。 それじゃあまるで、旦那に価値が無いみたいじゃないですか? 旦那なんて居ない方がいいみたいじゃないですか? ふふっ。 きっとそんな風に感じて、しょげた顔なさってたんでしょう? 今、財宝に囲まれて、いかがですか? 嫌な思いが鬱積して、そんな心が邪魔して、喜べないんじゃないですか? 不幸だって思っているんじゃありませんか? でも、大丈夫ですよ。 旦那には幸せになる方法が、あるじゃないですか、ほら。ふふふっ」 魔神はそう言って、錬金術師の胸元の賢者の石を触りました。 卑金属の病を治し、完璧な金にする薬。 「至高の治療薬」、アル・イクシール。 それは、不完全な人間の病を治し、完璧な、幸せな人間にする薬。 不幸を識(し)る意識なんていう病気を、惨めさを感じる感情なんて病気を、悲しいと思う心なんて病気を、治してくれる薬。 <左 普通> 錬金術師の心は空虚で、魔神の言葉にあらがう気力は残されていませんでした。 ただ満たされたくて、錬金術師は、アルコールにそれを溶かしました。 『クルアーン』で禁じられた葡萄酒に。 金の杯に波打つそれは、とても官能的で、血のように紅く、甘美で苦く。 <右 近い 囁き> 魂よ、謎を解くことはお前にはできない。 さかしい知者の立場になることはできない。 せめては酒と杯でこの世に楽土をひらこう。 あの世でお前が楽土に行けると決まってはいない。 (ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』より。ルバイヤートは、四行詩を意味するルバーイーの複数形で、四行詩集の事です。ですので、正確を期せばルバイヤートではなく、単数形のルバーイーとすべきです) <左 普通> 魔神の詠(うた)う、ルバイヤートの韻律に乗せて、恍惚と。 喉を伝う冷たくも熱い感触が、胃の腑に落ち、フッと消えていきました。 <左 近い 囁き> 腹の内(うち)から、自分であるという感覚が消えていく。 この腹は、皆(みな)の物。 この脚は、皆の物。 この腕は、皆の物。 この心は…… <左 普通> ああ、不安から、悲しみから、苦しみから解放された世界の、なんと穏やかな事でしょう。 錬金術師は、妻子にもそれを飲ませました。 一つになった家族。 心が溶け合った家族。 全てが自明で、完璧な調和のとれた家族。 彼らは、とても幸せでした。 不完全な心に煩わされる事などなく、とてもとても、幸せでした。 魔神がその様子を見て、高笑いを残し飛び去って行きましたが、錬金術師はただただ幸せでした。 彼らは、その調和を乱されたくなかったので、アラビア半島の付け根、峻険なコーカサスの山中に移り住みました。 狩りをし、採取をし、野菜を育て、金(きん)で交易をしました。 時にはよその者を迎え入れ、葡萄酒を振る舞いました。 厳しい土地でしたが、満足がありました。 他者を、自分の様に思いやり。 他者を、自分の様に慈しむ。 一人は皆の為に、皆は一つの目的の為に。 そんな理想が実現されたコミュニティ。 社会性を獲得した人類が、遂に至った完璧なる高み。 真なる霊長。 天国と現実の妥協点。 それは、とても穏やかで。 とてもとても、幸せでした 民族の坩堝と言われる、コーカサス。 コーカサス山脈には、アルマスという雪男が現れるそうですが、それは彼らが使役したゴーレムが苔むした姿でしょうか。 それは、今も人知れず、幸福な民族が暮らしている証なのかもしれません。 めでたし、めでたし。 今回のお話はいかがでしたでしょうか? あら、マスター、なんだか浮かない顔をされていますね。 心が無くなったのが幸せというのは、納得しにくかったでしょうか? ですが、これはとっても科学的なハッピーエンドなんですよ。 マスターが望まれた通りの、ね。 例えば、ストレスの問題です。 社会学によれば、人間のストレスの九割以上は、他者との人間関係に起因するそうです。 心と心がぶつかり合うから、そういうストレスが起こるのです。 ですから、心なんてものは消してしまって、もっと合理的なものに判断を任せれば、ずっとストレスが少なくて済みますわ。 マスターも、そう感じた事があるんじゃないですか? あいつは怒って、感情的になって間違った判断をしてる、もっと冷静になって合理的な判断をしてくれればずっと上手くいくのに、なんて。 羅針盤が歪んでいては、目的地にたどり着けないのは当たり前ですよね? では、心とか、感情とか、意識とか、そんな不確かなものに、影響されやすいものに判断を委ねてしまってもいいんですか? マスターも、周りの人に合理的な判断をしている自分に合わせて欲しいって思われているんじゃないですか? でしたら、マスターももっと合理的な判断をするものに判断を委ねてしまった方が良い、それが道理でございましょう? もしかして、心が無いと判断なんてできないとお考えでしょうか? ふふっ、おかしな事をお考えになるんですね。 マスターがくださった、タブレットがあるじゃないですか。 あれで、シャトランジというチェスの元になったアラビアのゲームを見つけたので遊んでみたんです。 わたくし、シャトランジには少々自信があるつもりでおりましたが、お恥ずかしい話、一度も勝てませんでした。 いえ、完敗、手も足も出なかったと言った方がより適切でしょう。 だって、コンピューターの打った手の意味が、わたくしの心では理解できないまま、気づいたら負けていたのですから。 ふふっ、心なんて無いコンピューターの判断に、でございますわ。 また、こんな心理学的な調査結果もありました。 不幸というものは、他人や過去の自分、理想の自分と比較して何かが足りないと考える事によって感じるそうです。 そんな事を考えてしまう心なんて捨ててしまった方が。 あるがままの現在とちゃんと向き合った方が、正しい判断ができて合理的だとは思われませんか? 他にも、生物学的には、幸せというのは、セロトニンやドーパミン、オキシトシンと言ったホルモン物質が分泌されている状態なのだそうです。 それが幸福の本質だとしたら、今みたいな迂遠な方法を取らずとも、もっと賢い方法があるのではないでしょうか? マスター、科学って凄いですね。 科学のおかげで、わたくしの知っている時代とはずいぶん様変わりしてしまいました。 とても豊かで、便利になりました、マスターがオススメしてくださった作品もとても興味深かったですよ。 貧しい方々も、餓えや渇きの心配をしていません。 いつ隣国が攻めてくるかも、という怖れを抱いている人だって、ほとんどいないんじゃないですか? 環境はそんなに豊かになったのに、でも、人々はわたくしの時代よりも幸せになっているようには見えません。 ねえ、マスター、進化の尺度で言えば、千年なんてほんのひと時だそうですね。 こんなに便利になったのに、人間は未だに、獣を狩って、山の幸を集めていた頃のままの心で生きているんですよ。 次にいつ食料にありつけるか分からないからたくさん食べておこうという本能、だとか、安心しきって獣に襲われないよう震える心なんていうのは、その頃には必要だったのでしょう。 ですが、果たして科学の恩恵にあずかる現代においても必要でしょうか? 逆に、飽食で肥満や糖尿病の問題になったり、ストレスの原因になったりしているんじゃないですかねぇ。 そんな心、無くしてしまった方が賢いと思われませんか? 意識なんて無い方が、不幸にならないと思われませんか? 感情なんて無い方が、皆、幸せになれると思われませんか? <左 近い 囁き> (耳吹き)ふー。 そんなに難しく考えないで、もっとリラックスしましょう。 一度、息を吐いてしまいましょう。 そうしたら、今度はスーッと大きく吸って。 (大きく息を吐く)フーッ。 ふふっ、体の力が抜けてきますね。 申し訳ございません、難しい話をしてしまいましたね。 心も体も緊張していたんじゃないですか? 深く呼吸すると、緊張が解けて気持ちいいですね。 では、もう少し繰り返してみましょうか。 吐く度に、指先や足先から力が抜けていく感じがしますよ。 (各5秒間隔くらい)吸ってー、吐いてー。 吸ってー、吐いてー。 力が抜けるの、気持ち良いですね。 ねえ、マスター。 マスターは、このように思われた事はありませんか? あいつが協力してくれたらなー、とか。 あいつさえ居なかったらなー、とか。 周りの人に認められたいなー、とか。 周りの人に必要とされたいなー、とか。 仕事や勉強したくないなー、とか。 遊びたいなー、とか。 寝ている間に体が勝手にやってくれないかなー、とか。 あれさえあればー、とか。 これさえなければー、とか。 そんな不満、無くなって欲しいとは、思われませんか? いっそ、そんな事全部忘れてしまった方が楽になる、なんて思われませんか? わたくしが、そんなマスターのこと癒してさし上げます。 ふーって息を吹きかけるたびに、ロウソクを吹き消すみたいに、頭の中の嫌なものが消えて楽になります。 わたくしの息に集中してみてください。 (耳吹き)ふー。 ふふっ。ゾクゾクして気持ちいいですね。 気持ち良さに身を任せちゃいましょう。 (耳吹き)ふー。 頭の中を涼しい息が吹き抜けて、気持ちが軽くなっていきます。 考えが吹き消えていきます。 (耳吹き)ふー。 ふふっ、息を吹きかけられるたびに、どんどん頭の中が白くなっていきますね。 頭の中からっぽで、スーッとして気持ちいいですね。 ねえ、もっと気持ち良くなっちゃいましょうか。 (耳吹き)ふー。 気持ち良くて、頭の中真っ白で、考えるのが面倒ですね。 ですから、何も考えなくていいんですよ。 だって、気持ち良ければそれでいいじゃないですか。ふふっ。 (耳吹き)ふー。 頭の中からっぽにするの、気持ちいいですね。 何も意識しなくていいの、すごく楽ですね。 ね、そうでしょう? (耳吹き)ふー。ふふっ。 このまま、何もかも忘れて眠ってしまうなんて、とっても素敵ですね。 あっ、そういえば明日の朝食はどうしましょう? 眠ってしまう前に決めておきましょうか。 そうしたら、マスターがお目覚めになる前に用意しておきますわ。 和食に挑戦してみましょうか? わたくしも焼き魚好きですし。 それとも、マスターがご希望でしたらまたアラビア料理に致しましょうか? ルギマートなんてどうでしょう? ハチミツとゴマをかけた揚げ菓子で、日本で言うと、うーん。大学芋みたいな感じでしょうか。 コーヒーにとっても合うんですよ。 やっぱり、朝にはコーヒーが欲しいじゃないですか。 マスターも、アラビックコーヒーに挑戦してみませんか? カルダモンの香りもあって、スーッと目が覚めますよ。 だって、マスター、明日お仕事じゃないですか。 明日のお仕事って、どういう予定でしたっけ? 発表があるって話されてたの明日でしたっけ? んー、めんどくさいですね。 ですけど、お仕事ですから仕方ないですよね。 (とぼけて)あっ、すみません。 わたくし、マスターのこと癒してさし上げていたはずなのに、嫌な事思い出させてしまいましたね。 (耳吹き)ふー。 何も考えないの、心なんて無いの、とっても、とっても、幸せ、でしたのにね。ふふっ。 <左 普通> (あっけらかんと)まあ、わたくしは心が無くなるなんてごめんですけど。 心があるのは、アッラーがそのようにお作りになったから。 不幸は、アッラーに与えられた天命だと思っておりますので。 そんな迷信深い人間でございますから。 <左 近い 囁き> ですが、マスターはわたくしと違って、「科学的」なお方、ですから、そんな風には思われませんよね。 <左 普通> ふふっ。すみません、少々意地悪が過ぎたでしょうか? この話は、一つの見方だと思ってくださいね。 どうでしたでしょうか? AFは楽しんで頂けましたか? わたくし、この時代に召喚されて、新しい事に触れて、今まで常識だと思っていたものがサクリサクリと切り崩されていく、そんな感覚が存外心地良く感じましたわ。ふふっ。 マスターにも、そんな感覚を楽しんで頂けたようでしたら幸いでございます。 ですけど、 <右 近い 囁き 不吉な感じで> 次のお話は、もーっと、面白いですわよ。ふふふっ。

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