1.邂逅
「あのー、すみません」
帰り道の事だった。隣町への買い出しを終えて、村へと戻っている最中だ
何処からか自分を呼ぶ声が聞こえて辺りを見回すが人影はない
ここは鬼ヶ森(おにがもり)という曰く付きの場所だ。歩けば鬼か、それに類するような魔物が現れるという
『こっちのほうが近道だから』と、迂回路を通らず、近道の鬼ヶ森を通った事をたったいま後悔した
時刻は既に逢魔ヶ刻。この森を通る人物は、知る限り一人も、いない――
「すみません」
今度ははっきりと聞こえた
人語を発するということは人間なのだろうか。しかし、自分以外の人間がこんな森を通るわけがない
思案しつつ周りを見回した時だった
「聞こえてますか?」
突如、耳元で囁かれた声に驚き思わず転倒した
下り坂になっている森の斜面をゴロゴロと転げ落ちていき、なにか柔らかいものに当たって止まった
「あら、やっぱり聞こえていたのね」
擦り傷を我慢して顔をあげると、女がいた。足を伸ばして座りながら口元を手で抑え、上品に微笑んでいる
見たことがない、美しい女だった
切れ長の目と長いまつげ。鼻筋はスッと通り、唇は薄い
細い腰に不釣り合いなほど豊満な胸に、すらりと伸びた足は長く、シミ一つない肌はまるで作り物のようだ
女の粋を集めたような、息を呑むような人外の美がそこにあった
魔性の森にいる人外の美をもつ人間の女。果たしてそれは何者だろうか
「ねぇ、ちょっとお願いがあるんです」
女が喋ると甘い匂いが鼻をくすぐった
薄い、形の良い唇に自然と目が行ってしまう
「これ、抜いてもらえませんか?」
女が指したものは古びた杭のようなものだった。地面に刺さった杭に巻きつけられたロープが女の足首に巻き付いている
見た所何の変哲もない木の杭で、人に頼む理由がわからない。訝しむ視線を送るが、女は困ったように笑うだけだ
擦り傷に痛む体をなんでもないように振る舞って杭に手をかけ、引き抜いた
その瞬間、杭の穴を中心にして魔法陣のようなものが浮かんで、消えた――ように見えた
「うふふ」
それを見て女はまた笑った。瞳が一瞬、真っ赤に輝いたのは気のせいだろうか
「ありがとう。必ず恩返しにいきますから待っていてくださいね」
その瞬間、突風が吹き付けた。ごおごおと煽る風に混じって木の葉や木枝が体を打つ
目も開けてられないぐらいの突風がやっと止んだ時、女は霞(かすみ)のように消えていた
後には古びた杭とロープだけが残った
夜――。村に一つしか無い酒場は喧騒を極めていた
村の男達は皆、仕事に疲れた体をこの酒場で癒やす
仕留めた獲物の大きさを誇る者や、今年の豊作を自慢する者、値上がる税を不安がる者、ただ世間話に興じる者まで様々な村人がいる
それらの賑わいに紛れて頬(ほほ)を赤らめた村人が言った
『なあ、お触れをみたか?』
『何の事だ?』
『お触れだよ。鬼ヶ森についての』
どうやら村人が鬼ヶ森の話をしているようだ。思わず耳をそばだてた
『どうやら恐ろしい魔物があの森に入り込んだらしい。男のみを食らう魔物なんだとさ。きっと世にも恐ろしい化物に違いない』
話を聞いていた村人が呆れ顔で言った
『与太話はやめろよ。そもそも村のモンは気味悪がって近づかねぇさ。それにあの森は昔に派遣された神官様が残した罠がいくつか張ってあるっていうぜ
化物や魔物の類いは動けなくなっちまうんだと。それで力尽きたらそのまま消えちまうって話だ』
『だといいがな。そういえば、村の中で唯一鬼ヶ森を通ってる奴がいたよな。あいつは確か~』
酒も食事も食べかけのまま切り上げ、酒場を出た
今日は季節の割によく冷える。はたしてこの悪寒は寒さ故か、それとも別の何かだろうか
夜道をトボトボと歩いて帰途につく。濃い雲が月を覆い隠している
今宵は輪郭のぼやけた満月、そして、色は赤い――――――