Track 5

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5.境界線・夢

かち、こち。かち、こち。時計の針が無機質な音を繰り返す。月曜日の朝を刻むそれすら私には憂鬱だった。一限目は自習だった。インフルエンザが流行していて、担当の先生が急遽病欠となったのだ。教室内にも空席が散見される。あの席は沢田さん。あそこは芦屋さん。そして、あそこは......。私の......大好きで愛しくて、温かくて、大好きで......大好きで大好きなひとの席。あのひともお休み。ため息が漏れそうになるのを抑え、自習課題の範囲をチェックする。気にしてはならない。先程から私を一点集中するその視線。あれに意識を向けてはダメだ。やがて一部の生徒が席を離れ、各々グループを作り談笑を始めた。少々煩わしいが、あの獲物を見定める獣のような眼光よりはマシである。集中、集中......とペンを握った瞬間、その目力は一層強くなり、やがて立ち上がり。ほかのクラスメイトが教室内を闊歩するのを待ってましたと言わんばかりに、私へと近づいてきた。鳥「黒崎さん」声の主、視線の主、向かってきたのは白水鳥子(しろみずとりこ)だった。最近この町へ越してきた転校生で、かなりの美人さん。礼儀正しく慎ましく、勉強も運動も出来て才色兼備と呼ぶのも過言でない。完璧超人だ。しかもあのひとの幼馴染。......仲良く出来るかどうかは、微妙だった。白水鳥子は嘘つきだ。それも冗談紛いのレベルでなく、質の悪い嘘をつく詐欺師だ。あのひとの婚約者だと嘯いて私をからかい、......いや、からかうなんてものじゃない。私の心に揺さぶりをかけた。一体何がしたかったのか、彼女の真意なんて分からない。彼が好きなのか、それゆえ私達の仲を引き裂きたいのか。いずれにせよこのひとは要注意人物なのだ。愛「......何?」鳥「怒ってますよね」愛「......。白水さん、私が怒るような事をしたのかな」 鳥「いえ、ふふ。黒崎さんって、いつも怒ってるから」私ね、貴女と仲良くしたいだけなの。本当だよ?でも貴女はそうじゃないみたいだね」愛「......私は」鳥「ねえ黒崎さん。あのひとの事が好きなの?」愛「ッ、ぅ――」鳥「私も好きだよ。......優しくて素敵なひとだよね。昔からそうだったんだ。例えばある年の夏なんかね――」有無を言わさずに突然語り出す白水さん。聞きたくもない過去の惚気話が始まり、私はいら立ちを隠そうともせず課題に手を伸ばす。かつかつ、かつかつ。乱暴にペンを回す私の反応が面白かったのか、白水さんは身を乗り出して雑音を掻き立てる。愛「いい加減にして」鳥「どうしたの?」愛「......気分が悪いから、保健室」鳥「私も行くよ」愛「いいです。大丈夫です」鳥「いいからいいから」愛「......」鳥「やっと二人になれたねぇ」ね。黒崎さんって、本当にあのひとの事が好きなんだ」愛「......貴女よりも......」鳥「え?」愛「あのひとは......こんな......こんな地味で友達もいない、取り柄も何もない私を好きだと言ってくれた。私はあのひとが好き。貴女みたいな過去に縋りつくひとにあのひとを語られたくない。もう私に話しかけないでください」鳥「あのひとがこの世に存在しないひとだとしたら?」愛「......へ?」鳥「だとしたら」愛「意味が分からないよ」鳥「もしもの話」愛「おばけって事?」 鳥「それでもいいけれど。この世界の住民ではない誰か......だとしたら?」愛「同じ事だよ。好きなの。あのひとが誰だったとしても、あのひとでしょう。ずっと好きだよ......。壁があるなら乗り越えたい。いいや乗り越えてみせる。何があったって私は......ずっと隣にいたい。ずっと、ずっと」鳥「――そっか。黒崎さん、貴女......素敵だね。それが聴きたかっただけ。教室、戻ろうか」愛「なに?本当に何がしたかったの」鳥「うふふ」白水さんは歩き出す。自然と不快なものは消えていた。教室に戻ると、クラスメイトの視線が集まった。しかし間もなく興味の薄れた顔つきで、各自の話に花が咲き戻る。白水さんは何も言わず、自分の席へ戻っていった。私も席につき、やりかけの課題に手をつける。あのひとの席は相変わらず空いていた。......彼が、この世の住民ではなかったら。私は笑みを零した。何とも馬鹿馬鹿しい問いかけだ。彼が何者であろうと......好きである事、好きでいてくれる事、それには影響もなく横槍もなく。愛に壁はない。かち、こち。かち、こち。時計の針が無機質な音を繰り返す。月曜日の朝を刻むそれは、煩わしいというよりか、あのひとと出会うまでのカウントダウン。むしろひたすら愛おしかった。

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