01.夏の日の巫女と日記帳
懐かしい、って感覚。これってさ、不思議なものだよね。目に見えるようなものではないし、ひとによって、感じ方はバラバラだし、自分の中にしか存在しない......っていうのかな。でも大抵のひとって、その感覚を、まるで宝物みたいにさ、大事に大事に、心の奥底にしまってあるんだよね。自分の住んでる町にさ、ふと懐かしさを感じることって、ない?私は、あるよ。あの、一際暑かった夏。夏休みから始まって、夏休みに終わってしまった、不思議な不思議な、特別な思い出。私の住む町で起きた、誰にも言えない、懐かしいお話。とある日記帳に刻まれた、小さくて、寂しくて、でも決して消えることのない......ナツカシノ、カケラ。アイ「いってきまーす!」アイ「うわっ。今日もあっついなぁ......。そういえばさっき、天気予報で三十五度とか言ってたっけ。八月にもなってないのに、ありえない気温だよぉ。......ぼやぼやしてたら熱にやられちゃいそうだし、もう、走っていこ」私の名前は波多瀬アイカ。あくびが出ちゃうほどの田舎町、鴨田山町に住む、ふつうの高校二年生。......ふつうとしか言いようがないから、ふつうって言ったけれど、強いて特徴を挙げるなら、ポジティブさだけは、人一倍にあるってところかな!それもふつうか。あはははっ。ところで、今日は何と、夏休み初日なのです。子供の頃だけに許される晴れやかな長期休暇、そのいっちばん最初に、私は何をしているかというと、ふふ、それはね。毎朝欠かさずに行ってる、地元の桔梗神社への参拝です!それだけは、小学生の頃からずーっとサボったことがなくて、ちょっとした自慢なんだ。桔梗神社には、桔梗様っていう女性の神様がいて、彼女は鴨田山町の守り神なの。その力は結構強くてね、たとえば私の高校受験の日なんか、日が昇る前から拝んで、拝んで拝んで、空にも拝みまくって!見事に合格を勝ち取ったんだ!えへへ。すごい神様だよね。さてさて、とっとと行きますかー!・ついたついた。今日も立派な佇まいですなあ、桔梗様!さ、今日もちゃんと持ってきたよぉ?ふふふ。じゃーん!お賽銭、一円玉!一円玉って、いつもたくさんお財布に残ってるよね。毎日ジャラジャラお賽銭箱に入れられたら、桔梗様も喜ぶだろうなぁ。アイ「今日も一日、鴨田山を守ってください、桔梗様......!」コウ「ふふ。仰せの通りに」アイ「えっ?わぁっ!」コウ「あっ。驚かせちゃった?ごめんなさい」
2アイ「......わああ。すっごい、綺麗......」コウ「へっ?」アイ「ま、まさかモデルさんですかっ?見慣れない制服だけど!」コウ「ち、違います!私、この神社の巫女です。立花コウっていいます」アイ「へえ、巫女さんなんだ。コウちゃん......名前も綺麗だね」コウ「うぇっ。あ、ありがとう。......あなたの名前は?」アイ「波多瀬アイカだよ。アイって、名前で呼んでくれると嬉しいな」コウ「え、ええと......アイ、ちゃん......?」アイ「うんうん!コウちゃん♪」コウ「......何だか恥ずかしい」アイ「あっはは!可愛いー!」コウ「も、もう!」アイ「ところで、今日はどうしてここに?私いつもこの時間に来るんだけど、巫女さん見たの初めてなんだよ」コウ「......その前に、ひとつ、質問に答えてくれる?」アイ「へ?うん、いいよ」コウ「アイちゃんは、さ。ここのこと、どう思ってる?」アイ「ここって、桔梗神社のこと?......どうって?」コウ「ん、と。好きとか、嫌いとか」アイ「そりゃあもちろん、大好きだよ。雨の日も雪の日も、毎日参拝してるんだから!そもそもね、この鴨田山町が大好きなの。温かくて、どこか懐かしくて、ふふ、おかしいよね。ずっと住んでるだけで、特に何かあったわけでもないのにさぁ。それでさ、ここって、鴨田山町を見下ろせるんだよね。まるで自分が桔梗様になって、守り神として街を見守ってるような、不思議な感覚になれるんだ」コウ「......そっか。じゃあアイちゃんには、すごく辛いことを伝えなきゃいけないね......」アイ「ふぇ。どういうこと?」コウ「桔梗神社ね、この夏に解体されるの」アイ「......へ」コウ「私も、詳しくは知らないんだけどね。神主さんの希望で、取り壊しが決定したんだ」
3アイ「えっ......えぇえええええええっ――」コウ「だ、大丈夫?」アイ「......ダイジョウブジャナイ」コウ「うう、元気出して......。あの、さっきの質問に答えるけど、私、本殿の掃除をしに朝早く来て、いま帰るところだったんだ。そこに丁度あなたが来て......こうして、初めて出会えたの。運命って言葉は、安っぽいから好きじゃないけど、これって、とっても素敵な出来事のような気がする」アイ「......うん、そうだね。私も、コウちゃんに会えて嬉しかった。ここに来るときは、いつもひとりぼっちだったからねー」コウ「ふふ。毎日、毎日、参拝してくれてるんだもんね。そんなアイちゃんに、私からご褒美をあげちゃいましょう。はいっ」アイ「んん?なに、これ?随分と古い本だね......?」コウ「桔梗様のつけていた日記帳っていわれてるの。中身はぼろぼろで読めないけど、でも、アイちゃんに持っていてほしいんだ」アイ「ええっ!そ、それって何か、家宝?っていうか、物凄くありがたーいモノなんじゃないの?私なんかがもらっちゃって、大丈夫?何か恐れ多いよぉお」コウ「これは、桔梗神社を誰よりも愛してるアイちゃんにこそ相応しいモノ。できれば、ずっと持っていてもらいたいな......」アイ「う、うう......そこまで言うのなら......ありがたく頂戴します」アイ「うっ......?」何?何々?おかしいよ、この感じ。何だか、視界が明るくなったような。世界に見える色が増えたような。景色が鮮やかになったような、何?何なのこれ?コウ「アイちゃん、どうかした?」アイ「......えっ?あっ、ううん、何でもない」コウ「大事に持っていてね。約束だからね」アイ「分かった。ありがとう......」コウ「どういたしまして。ねえ。また、明日も来てくれる?」アイ「うん。参拝は朝の日課だからね」コウ「よかった!私はこれから毎日ここにいるから、是非♪じゃあね、また明日!」アイ「あっ、ば、ばいばーい!」
4......何か、不思議な子だったなぁ。いや、それよりもこの本......ええと、桔梗様の日記帳だっけ。神様のだよ......?こんなもの、私が持っていていいのかなぁ。それに、今はもう収まったけど、これを手にしたときのあの感覚は......まるで額にもうひとつの目が出てきて、それで世界を見渡してるような、とにかく、上手く言い表せない不思議な感じだったな。うーん。立花コウちゃん。桔梗様の日記帳。そして、桔梗神社の解体......ああ、頭ぐちゃぐちゃになりそう。これ、私の脳みそで処理できる情報量じゃないよぉ。私の通う鴨田山高校は、桔梗神社から田園を抜けて、住宅街の方へ向かう途中にある小さな学校だ。なぜここに来たのかというと、それは、桔梗神社取り壊しの理由を知るため。担任の足柄先生は、よく授業中にこの町で起きた出来事とか、無駄話......じゃなくて、昔話を長々と語ってくれるひとだから、きっと鴨田山の地域事情に詳しいはず。今は夏休みだけれど、補習や部活動のために校舎を開放しているから、生徒の出入りは自由なんだよね。アイ「先生、いるかなぁ」アイ「おはようございまーす。足柄先生いらっしゃいますか?」教師「あら波多瀬さん。足柄先生なら、書庫にいるよ」アイ「書庫......あっ、ここの向かいか。ありがとうございます。失礼しまーす」アイ「足柄せんせー?」足柄「おお波多瀬。何だお前、今日も補習か?」アイ「違いますよっ。っていうか今日もって!夏休み初日ですし!あのですね、ちょっとお聞きしたいことがあって。......桔梗神社が取り壊されるって、知ってますか?」足柄「ああ、知ってるよ。又聞きした話だが、何でも神主からの強い要望があったらしいな。随分急だったが、本人立って工事関係者に話を通したそうだ」アイ「どうしてそんなこと......?」足柄「さてなぁ。何か心境の変化でもあったんじゃないかな。神職を廃業したくなったとか。それもなかなか珍しいことだが」アイ「でも、神社を壊しちゃうことはないじゃないですか!もし社を失ったら、桔梗様はどうなっちゃうんですか?」足柄「何をそんなに熱くなってるんだ。外の熱にでもやられたのか?確か今日は最高気温更新だとか」アイ「茶化さないでくださいよ。あまりに唐突すぎて、気になったんです」足柄「まあお前が心配する必要はないよ。遷宮といってな。本殿を解体しても、御神体は他の神社に移されるのがふつうさ」アイ「ほ、本当ですか!?さっすが、歴史の先生!」
5足柄「ほらほら、用が済んだらさっさと帰れ。俺は忙しいんだ」アイ「珍しいですね、先生が忙しそうにしてるなんて」足柄「感心したように失礼なこと言うんじゃないよ。ああ、そうだ。今夏の桔梗祭は、最後の祭りになるだろうからな、なるべく参加するようにしろよ」アイ「ふぇ?あッ......桔梗神社がなくなるから......ですか?」足柄「まあ、あれは桔梗様を崇める祭りだからなぁ。恐らく夏祭り自体は今後も執り行われるとは思うが、本当の意味での桔梗祭は、神社が存在する今年がラストになるはずだ」アイ「......そっか。何にせよ、助かりました。ありありがっとーございまーす!」足柄「何その斬新なお礼!廊下は走るなよ!」アイ「分かってまーす!」遷宮......かぁ。つまり桔梗様が死んじゃうわけじゃないんだね。よかった、よかった。神社がなくなっちゃうのは寂しいけれど、ちょっぴり安心だ。......あ。いつの間にか桔梗神社の前まで来てたんだ。うーん。でもさ、何か妙だよね。この神社、私が生まれる前からずーっと建ってるらしいし。そんな長い歴史に、いきなりピリオド打つなんてさぁ。取り壊されるのって、どんな理由なんだろう。参拝客が昔より減ったとか?それとも本殿の老朽化とか......かな?歴史の長さはむしろ、古さの象徴でもあるもんね。いつか壊されてしまうのは、仕方のないこと、なのかな......。それって、何だか......寂しいね。うーん......コウちゃんも言ってたけれど、この日記帳、古ぼけて全然中身が読めないや。これ、相当古いよなぁ。今にもぼろぼろに崩れそうだし、文字は滲んでるし。アイ「ううむ、どうにかして読めないものか......うああ中身が気になるー!」メイ「もー、さっきからぶつぶつうるさいよお姉ちゃん。いくら夏休みだからって夜更かししすぎ......って、何その汚い本」アイ「あ、メイ。こらっ、汚いって言わないの!大事な大事な宝物なんだから」メイ「そんなの初耳だよ......。わっ、文字すごい掠れてるし、ページボロッ!捨てちゃいなよ、もう」アイ「だーめーなーの!確かにボロいけどさぁ......」メイ「そうそう知ってる?八十年代以前に造本された書物って、酸性紙を使うものが多いんだって。それらはものの二十年で劣化して、こんな風にズタボロになっちゃうの」アイ「へ、へえー。さすがは巷でうんちくの母と言われる妹......」
6メイ「フフン。無知で無学なお姉ちゃんとは違うのです」アイ「その生意気さがなければ、もうちょい尊敬できるのになぁー」メイ「はいはい。いいから早く寝なよ。明日も参拝しに行くんでしょ?信心深いアイお姉様」アイ「むー。納得いかないけど、メイの言う通りだよ......。じゃ、おやすみ」メイ「はいはい。おやすみ、お姉ちゃん」メイの言う通りなら、これは八十年代より前に書かれたものなのかな?桔梗様って、何歳なんだろ......?っていうか、問題はそこじゃなくて......。これに触ってから、何か......今まで見えなかったものが、見えるようになった気がするんだよなぁ。一体それは何なんだろう。ふぁ~あ......ねむい......もう寝よ......」