chapter 1
……あら、どなたかしら。ここには誰も入れないようにしていたはずだけど。
歩いていたら突然?
……ああ、そういえば昔、人間の街に転送の罠を仕掛けて遊んでいたことがあったわね。
すべて消したと思っていたけど、手抜かりだったわ。ごめんなさいね。
帰りたい?そうよね。当然そう。
でも、駄目。貴方を帰すことはできない。
私は、もう自分の名前すら意味を成さないほどの時を、独りで眠り続けてきた存在。
誰にも会わないことで、誰かに害されることから逃げて来たの。私の手違いとはいえ、貴方はそれを乱した。
外に出る?人間には無理よ。まあ、試してみる分には構わないわ。好きにしなさい。
気は済んだ?ここは魔界の地中深く……。出入りするには、魔法を使うしかないの。人間には無理といったのは、そういう意味。
安心しなさい。殺しはしないわ。貴方の寿命の間は、私が貴方の身柄に責任を持ってあげる。それが、私がしてあげる最大の譲歩。
震えているのね。怖い?それとも、怒っているの?
そう、そうよね。怒るのも当然ね。それが感情というものだったわね。私の中にも、哀れみという感情が湧いている。……ふふっ。
あら、その手は何かしら。私に手を上げようというの?そう、そうよね。それだけの非礼を、私は働いてしまったもの。
いいわ、やってみなさい。それで貴方の気が済むのなら。さぁ。
……どうしたの?しないの?
いくらでもいいのよ。その程度では死にはしないから。
遠慮なんてしないで……、ほら……。
……泣くくらいなら、素直に私を叩けばいいのに。恨めしい目で見たかと思えば、今度は子どものように泣いてしまって。……不思議ね。そういう姿、かつてはわずらわしいと思っていたけれど、今となってはうらやましいとも思えてしまう。
安心なさいな。不安や恐怖という気持ちならば、私もよく理解できる。
そして私は、そういった感情を溶かしてあげることは、何よりも得意なの。
私はサキュバス。かつてはその女王と呼ばれたこともある存在。
隠棲した今であっても、人間である貴方を桃源の里へ導くことは容易い。
その気になれば、貴方の瞳を見つめ続けるだけでも、夢心地の内に死へと沈めることができる。
安心なさい。約束は守るわ。貴方が望まぬ間は、そんなことはしない。貴方に与えられた時の砂が尽きるまで、貴方を守り抜くことは私の責務。
いらっしゃい。泣くのならば、私の腕の中で泣きなさい。この胸を揺りかごに。貴方の髪を梳く指を櫛に、頬を撫ぜる指をハンカチーフにして。
……ふふっ、そう言われても怖いだけよね。でも、ここで私を拒んでも辛いだけよ。ここから出ることは不可能なのだから。
たとえ私を殺したとしても、貴方が出られるようにはならない。むしろ、私を殺してしまうと、生きるための糧を得ることも叶わなくなってしまうわ。
ここには人間の食料なんて置いていないのだから、飢え死にを待つだけよ。
さぁ、どうするの?
私は力の限り貴方を守っていくつもりでいるけれど、貴方自身が死を望むのならば、それを止めはしない。
苦痛の死を選ぶか、私の抱擁か。ここで選びなさい。
んっ……、懐かしいわ、人の体の重みとあたたかさ。貴方はどうかしら。少しは慰めになってくれているかしら。
涙が止まるまで、いいえ、止まってからもそのままでいいの。眠りたいのならば、眠ればいい。快楽を求めるのなら、それに応えてあげる。
……頭を撫でて欲しい?欲がないのね。サキュバスの腕に抱かれて尚そんなことを言えるなんて。人間とは不思議なものね。
ほら、これでいいの?……あらあら、うっとりしちゃって。可愛い顔も出来るのね。貴方が幼子だった頃が透けて見えるようだわ。
もう怒らないのね。子ども扱いされても怒らないなんて。……それだけ不安だったのでしょうね。
分かるわ。
私も、誰かに弑されることへの不安から、誰にも会わぬことを選び、眠りの世界へと甘えたのだから。