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私はこれまで、不自由のない平穏な人生を送ってきたと思う。 一人っ子なので両親にはかなり愛されて育ち、中学と高校では吹奏楽で全国大会にも出て、友人たちと良い青春時代を過ごした。 女子大に入ってからは真面目に勉強して、世間的にも名の知れた中堅企業に無事就職。 会社で出会った夫と五年の交際を経て結婚し、早三年。 今年で三十一になるけど、子どもはまだいない。 結婚して二年ほどは会社に残っていたけど、去年の年末で退社。 以来、専業主婦をしている。 パート仕事に出ようかとも思ったのだけど、夫は子どもが欲しいようで、仕事には反対してる。 これまで自分で仕事をしてきた貯蓄もあるし、夫は忙しいながらも月給は十分。 マンションを買った残りのローンも心配することはないので、無理に仕事に出ることはないのだけれど。 子どものいない専業主婦業はあんがい暇を持て余してしまう……。 ならば趣味は? 中学高校とフルートを吹いてきたけど、今からまた始めるとなれば、ほぼ一からやり直しになってしまう。 防音室はないから家では吹けないし、お金を払って音楽教室に通うほどでもない。 就職の時に地元を離れたので吹奏楽部時代の友人たちはみんな遠いし、そもそも今でも楽器をやっている人はほとんどいない。 大学では勉強ばかりだったし、就職してからは仕事と夫との交際で趣味を持つことはなかった。 結婚して、仕事を辞めて、子どものいない専業主婦……何不自由ない、平穏な暮らし。 確かにそう……平穏すぎて、つまらない。 これなら仕事をしていた時の方が良かったと何度も思った。 けれど、子どもが欲しいという気持ちもある。 夫もそうなのだから、それでいいはず。 ……なのだけれど、夫は、その……性に少し弱い。 子どもは欲しい、けどセックスはそれほど好まない。 仕事で疲れているからというのもあるだろう。 夫の行為はとても淡泊なものだった。 この数ヶ月、これまでの交際、結婚生活になく性行為を重ねているけど、いっこうに妊娠する気配はない。 妊娠するしない以前に、私が性行為に満足できていないのだから困りもの……。 そんな時だ。 私が、彼に出会ったのは……。 同じマンションの同じフロアにあった空き部屋に、彼が入居してきたのだ。 税理士として独り立ちして、ここで暮らしながら仕事をするという。 彼と不倫の関係が始まったのは、私に原因があったと思う。 彼が入居の挨拶に来てくれた時、驚いて声をあげてしまった……彼が、高校の時の吹奏楽部の先輩によく似ていたからだ。 初恋……とまでは言わないけれど、同じくらい燃えた恋だった。 私より一つ年上の、トランペットを吹いていた先輩。 だけど先輩には部内に彼女がいて、私の恋心には気付かないまま……。 告白することはできず、片思いで終わった高校時代の恋……それでも幸せだった。 熱中できる部活動と恋心は、思春期をいろどる良い思い出だった。 彼との出会いは、それを思い出させた。 実際には彼は、片思いした先輩ではなく、それどころか年上でもなくて一つ年下だった。 苗字も出身も違う赤の他人。 だけど、思い出の中にいる素敵な先輩の面影を確かに持っていた。 それが理由で私たちは話すようになり……どちらからともなくお茶に誘い、時に私の部屋で、時に彼の部屋で、ランチやティータイムを楽しむようになっていた。 片や、趣味もなく暇を持て余している専業主婦。 彼に、昔憧れていた人の面影を見て、幼かった頃の恋心に胸をときめかせている……それを、彼に気付かれているとわかっていても、なお。 片や、一人で家にこもって仕事をしている独身男性。 私の視線や思いに気付きながら、その上で見つめ返したり、私の持つ、人よりも少し大きな胸にも目を向ける……次第に、熱烈に。 私たちのマンションの外廊下は、外部から見えにくい。 マンションの玄関はもちろんロックがあるので、用のない人は入ってこられない。 同じフロアに住む他の住人たちと会うことも、滅多にない。 だから、私が彼の部屋に行く時、同じフロアの住人にさえ見られなければ、誰にも怪しまれることはない……。 私はもう、彼を私の家に誘うことはなくなっていた。 私が彼の家に行くだけ。 その意味を彼もすぐにわかってくれた。 彼が手を握ってくれた時、高校時代に感じていたあの熱い恋心がはっきりと思い出され、私は彼の求めるままに目を閉じ、唇を差し出した……。 私の唇に初めて夫以外の唇が重なった。 まるでファーストキスのような衝撃が背筋を震わせる。 そうだ。 私は、夫以外の男性とキスをしたことがなかった……もちろん、それ以上のこともない。 急激にわき上がる、不倫、という言葉とその意味。 思わず彼の唇から逃れてしまった……けどそれが、逆に彼の心に火を付けてしまったらしい。 ためらう私の唇を、彼は強引に奪う。 強く抱き締められ、うなじを押さえられ、唇を重ねられた。 強く押し付けられたり、優しく撫でるようにされたり……息を吹きかけられたり、吸いつかれたり、唇を舐められていく。 抵抗力はどんどんと奪われていき、肩の力は抜けて……閉じていた唇は、まるで蕾が綻ぶように開いた。 彼の舌が口内にすべり込み、舌をまさぐる。 まだ戸惑いのある私は舌を奥へと引いた。 それでも彼の舌は口内で蠢き続ける。 上あごを、歯の裏を舐め、そして唾液を流し込んできた。 口の中に男性のモノが流れ込んでくる違和感に、私はあろうことか快感を覚えてしまっていた。 彼の唾液が舌に絡み、その味を伝えてくる。 夫とは違う体液の味は、私を酷く興奮させていた。 そのせいだろう……引っ込めていた舌が伸びるまで、さほど時間はかからなかった。 舌を伸ばして、口内で蠢く彼の舌に触れる……。 ねっとりとした粘膜の感触に不快さはなく、むしろ快感があった。 まるで甘くとろける生クリームのようで、口内に幸福感が満ちていく。 甘く、とろりとした感触。 官能的な美味……私は彼の舌を啜り、唇で甘噛みしてみた。 ふわりとしていて、温かい。 挟み込んだ舌を、舌先でくすぐるとお返しとばかりに絡みついてくる。 今度は私の番だ。 彼の口内に舌を入れると、同じように唇で甘噛みしてくれる。 口内では激しく舌を蠢かせ、絡ませてくれる。 ……そして、もっと伸ばして欲しいというように啜り始めた。 彼の吸引力は、強すぎず弱すぎず、舌の根元が優しく引っ張られるような感覚。 夫には、こんなキスをされたことがない。 そもそも、こんな風に舌を激しく絡ませてくれたことはない。 唇を、舌を、唾液を求められるキスは、心を蕩けさせるのに十分な魅力があった。 抱き締められながらの激しいキス……唾液が溢れて口の端から垂れ流れれば、それさえも舐め取ってくれる。 いつしか彼の唇は、私の唇だけではなく頬や首筋にまで伸びていた。 背を抱いていた手は脇に、そして胸に流れている。 夫以外誰にもさわらせたことのない乳房に、彼の手が乗っていた。 もちろん、ただ触れるだけではない。 その大きな手が乳房を掴み、揉み始める……。 私はまた緊張で体を硬くしてしまう。 衣服の上から優しく揉まれるだけでは、まだ快感は生まれない。 けれど、早鐘のような鼓動は伝わっているだろう。 それを確認するかのように、彼の手が乳房の隅々まで這い回る。 まだ強くは揉んでこない。 あくまでも優しく、私の緊張を解すかのように。 キスも、優しく甘いものになっていた。 舌を絡めることはなく、唇をついばむような軽いキス。 そして、吐息混じりに尋ねてくる……いいですか? と。 これ以上のことをしてもいいですかと。 セックスをしてもいいですかと。 不倫行為をしてもいいですか、と……。 あぁ、この人はここまでしておきながら、最後の選択を私に委ねるのだ。 ならば、もしも私が拒んだらどうするの? ……この人は、きっと離れるのだろう。 そして何事もなかったかのように微笑むのだろう……私は、笑えるだろうか。 何事もなかったのだと、この人の前から去ることができるのだろうか。 いえ、できはしない。 この胸の高鳴りが、下腹部の熱さが、ここで終わらせるのを拒んでいるとわかるから。 だから、頷くしかなかった。 彼を受け入れるしかなかった。 私が、自分の意思で。 彼との不道徳な行為に身を委ねるのだと決めるしかなかった。 ……彼に非はないと、この罪は私一人で背負うのだと決めて、唇を重ねる。 自ら求めた不倫のキスが、私のタガを外していた。

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