01
最初に彼のことを認識したのは、高校一年生の一学期。
オリエンテーリングで同じ班になった時に話したのがきっかけ。
ひ弱だった私は、五月の日差しにさえやられてしまって、弱っていた。
そんな私の荷物を持ってくれたり、スポーツドリンクを分けてくれた……その時はまだ、彼に恋をしたわけではなかった。
ひ弱で、そして気弱な私には、男子の友達なんていなかったし、
恋愛感情なんて持ったこともなかった。
でもそれ以来、彼とだけはごく稀に話すことができるようになった……他の男子とは、やっぱりほとんど話せなかったんだけれど。
そんな彼に恋をしているんだと気が付いたのは、二学期の球技大会の日。
友達に誘われて見に行った、彼が参加しているバスケットボールの試合。
そこでの活躍に、目を奪われていた。
彼の動きに一喜一憂し、彼の勝利に胸を躍らせた。
なんて清々しい笑顔だろう。
思えば私は、あのオリエンテーリングの日からずっと、彼ばかり見てきた気がする……彼の笑顔が見たくて。
初恋……幼稚園の時の友達が、小学校の時の友達が、その言葉にはしゃいでいたことを思い出す。
そして私もようやく、初めての恋に胸を高鳴らせるようになった……女になったんだ、
その思いが、私を強くしてくれた。
スポーツ全般に興味のなかった私だけど、その日から彼の所属するサッカー部の試合はなるべく見に行くようにした。
炎天下の日でも、頑張って行った。
二年生になってクラスが別れてしまい、話す機会は更に減ってしまったのだけど……彼を追いかけた三年間は、とても幸せだった。
最後まで、私の好意は告げることができなかったけれど。
高校を卒業して私は女子大に進み、彼は地元企業に就職した。
その時になって初めて、彼が金銭面的に少し不自由な生活をしていると知った。
知ったからといって、どうにかできるものでもない。
私は裕福な家に育ち、何不自由なく育った。
彼の応援にも、試合会場までタクシーで行っていたことを今更恥じても仕方なかった。
社会勉強のため、と大学時代にアルバイトはしたけど、
親のコネと監視の下では、大した試練にはならない。
大学卒業後の就職先も親のコネで決まり、そして……結婚さえ親の言いなりになってしまった私はもう、彼への恋心を思い出すことさえ、
不貞だと思ってしまうほど……私はもう三十歳にもなろうというのに、元のひ弱で気弱な女に戻ってしまっていた。
そんな私の心がまた動き出したのは、同窓会で彼に再会した時から……。
十二年も会っていなかったのに、一目見てすぐに彼だとわかった。
大人の顔になり、体は更に逞しくなっている……けど、笑顔は昔のまま。
嬉しいことに、彼もすぐに私に気付いてくれた。
今日この日のために選んだ服。
濃すぎず薄すぎないよう努めた化粧。
……でも、結婚指輪は外せないままで彼の前に立つ。
喜びだけ、というワケにはいかなかった。
羞恥や困惑、そして後悔。
いろんな思い出がわき上がり、そのすべてが心から離れない。
私はすぐにいっぱいいっぱいになってしまって、ついには彼の顔を見ることもできなくなってしまった……結局、私は、
遠くから眺めているだけで良かったのかもしれない。
彼を目の前にしても、昔も、今も、何も言えないのだから……。
でも、あまり好きではないお酒の力を借りて、未練がましくも彼が残る二次会に参加した。
高校時代、私の片思いを知って後押ししてくれていた友達に色々と注意されたけど、三次会にまで残ってしまい、気が付けば私の横には、彼だけが立っていた……と言うか、寝転んでいた。
豆電球だけがついたその部屋は、ほこり臭く、すえたような匂いも漂っている。
散らかった衣服や雑誌、持ち帰りのお弁当のゴミや空いた缶ビールが転がっている。
そこが彼の部屋なのだと、すぐにわかった。
私を布団に寝かし、彼は少し離れたところで横になっている。
私は酔ってしまい、彼の反対を押し切ってこの部屋に押しかけたようだった……未練がましいどころの騒ぎじゃない。
みだりな行動が恥ずかしく、はしたなさに涙が出そうになった。
けど、彼は私に何もおかしなことはしていなかった。
目を覚ました彼は紳士的で、そしてやはり高校時代の清々しさを持ったまま。
この時、私は胸のときめきを抑えられなかった。
酔いは残っていない。
理性はちゃんとある。
ある上で、私は十二年前に告げられなかった思いを……口にしてしまった。
……私はもう、結婚している。
親が決めたその相手は、私が勤めていた会社の重役で、一回り年が離れている。
夜の営みは何度かあるが、子どもはまだいない。
外にも女の人がいるようで、
私のことはさして好みではないらしい。
でも、世間体として子どもは欲しがっているし、親も孫を欲しがっている。
近いうちに、夫の子を孕まなければならなくなるだろう……その前に。
どうしても、その前に……彼に抱かれたい。
そんな、女としての欲望が私にあるなんて思ってもいなかったけれど、彼の部屋で二人きりになって、幼い恋心がわき上がってきて……つい。
あなたが好きだから一度だけで抱いて欲しい……そう、はっきりと口にしてしまった。
彼は、私の結婚指輪を見て少しだけためらったけど、頷いて……すり寄って、口づけをしてくれた。
キス。
口づけというのは、こんなにも心を痺れさせるものだったのね。
夢の中や、絵本の中の王子様とのキスはこういう感覚なのかもしれない……なんて、乙女チックなことを思ってしまう。
だけどこのキスは現実。
あたたかく柔らかな唇、少し残ったお酒の味と、タバコの匂い。
私にふれる手のゴツゴツとした感じは、男らしさというモノを強く伝えてくる気がした。
夫は肥えすぎてはいないけど、ふっくらとしていて、昔から運動が苦手だったということで、ゴルフは付き添いのみ、ジムにも通ったりはしていない。
私と同じ、ひ弱で軟弱な体付き。
でも彼は違う。
県のベストフォーまで進んだサッカー部のレギュラーだったし、今も肉体労働の現場で働いている。
その筋骨逞しい体に私は惚れ惚れしてしまう……同時に、自分のたるんだ体を恥じる。
けれど彼は、私の裸を……下着姿を見ただけで、とても興奮してくれた。
激しく屹立する男性器が、彼の欲情を物語っている。
それは、女として、とても嬉しいことだった。
……私は、本当はセックスが好きじゃない。
そもそも、夫のことが好きではないのだから、セックスに興味なんてあるはずもない。
初めての相手は夫だし、夫の相手しかしたことがない。
だから性行為に対しては、子どもを授かるという目的以外、何も思うことはなかった……彼に再会するまでは。
……高校生の頃、彼に恋をしていた時、私は彼に対して性欲を抱かなかった。
セックスを知らなかったのだから仕方がない。
もちろん、知っていたとしても、彼に、抱いて欲しいなんて言う勇気はなかっただろう。
だからこの時、それを言葉にできて嬉しい反面、困惑もあった。
キスをして、体をまさぐられ、服を脱がされ……彼の裸を見て、そそり立った男性器を見て、ようやく私は、自分が口にした言葉がいかにはしたないことだったのかを知った。
不倫……不貞……私の人生に、そんなことが起こりえるなんて思いもしなかった。
夫には愛人がいるけど、それに対して怒りや憎しみを覚えたことはない。
けれど、夫がこのことを知ったら、どう思うだろう。
離婚される……ことは、私の両親の手前、ないだろう。
ならばこれまでと同じように、冷めた夫婦関係があるだけだ。
……そんな私の逡巡
に、彼も小さなためらいを見せた。
私は……彼の唇に自らの唇を重ねて、もう一度言った……抱いて欲しいんです、と。
本当は、愛して欲しい、そう言いたかったのだけど、それが駄目なことくらいはわかる。
彼に妻子がないのがまだしも救いだったけれど、曲がりなりにも結婚している私が、夫以外の男性に愛して欲しいだなんて言えるはずがない。
……なら、抱かれることはいいのだろうか?
初恋の人だから……今日を逃せば、次いつ会えるかわからないから……彼の家にあがれる機会なんて、きっともうないだろうから。
だからって、不倫セックスが正当化されるわけではない。
そのくらいのことはわかっているのだけれど、わき上がってしまった情欲を抑えることはできなかった。
私は、自分にこんなに強い性欲があったのだと、この日初めて知った……。