幕間1
その日、王立協会は独特の空気に包まれていた。
繊細を要する実験の緊張感、科学者ならば馴染み深い感覚。
些細なミスが実験結果を変えてしまう、声を出すのを躊躇うどころか、息を飲む心地。
実験室の空気というものだろうか、彼らはその重く苦しい空気の中にこそ輝くような発見がある事を熟知していた。
もっとも、そんな空気をよもや発表の場で味わうと想像していた者は居るまい。
彼らの視線の先には、ヘンリー・キャベンディッシュ、その発表者の姿は無かった。
その発表者は壇上に立つや開口一番、視線を向けない事を希望しだしたのである。
かくして、誰もがてんでバラバラな方を向く奇妙な発表会が始まった。
そう誰もが、当のキャベンディッシュすらも明後日の方を向き、古臭い三角帽を目深に被り、視線を原稿に落としたままボソボソと語っている始末だった。
会員たちの、キャベンディッシュの評価は概ね一致していた。
それは、「なんだか良く分からないけど凄そうな奴」である。
父親の名声もあってか、なんとなく優秀なのは伝わってきていた。
しかしながら、彼はとにかく寡黙で、非社交的なので、どう優秀なのかさっぱり分かっていない。
そんなキャベンディッシュの初めての発表である、彼に肯定的な者も、鼻を明かしてやろうという否定的な者も、揃って黙し、眼を閉じて、耳をそばだてていた。
小さな声に集中するというのも疲れるものである、彼らの額には汗が浮いていた。
発表の要旨は次のようなものだった。
酸に金属を浸すと生じる気体、それは空気の10分の1の重さもなく、極めて燃えやすい性質を持っていた。
その気体が生じる前の金属は燃焼するが、生じた後の金属は燃焼しない。
キャベンディッシュは、その気体を物質が燃焼する元、すなわちフロギストンであると推測した。
この新たな気体、後に水素と訂正されるそれの発見に、会員たちは惜しみない称賛の拍手を送った。
彼らは忘れていた、発表者がこのフロギストンのように反応しやすい事を。
キャベンディッシュは視線を感じると、たちまち燃えるように赤くなり、帽子のつばで顔を隠して飛び出してしまった。
唖然とする会員たちを尻目に、辻馬車の中に姿を消す。
キャベンディッシュは馬車の中で一人になり、ようやく人心地ついた。
手を固く握りしめる。
こんな有り様にも関わらず、彼の胸中を満たしていたのは「途中で逃げずに最後まで言えた」という達成感だから驚きである。
大きく息を吐くと、ラベンダーの香りが鼻先をくすぐった。
そういえば、あの吸血鬼もこの香水が好きだった。