Track 2

ベッドでの二人

2  二日目 「ベッドでの二人」  その日の夜のこと。 【優衣】 「あ、兄さん」 【兄】 「んー」 【優衣】 「歯磨きの途中? ――あ、いいのいいの。兄さんを探してたわけじ  ゃなくて……これこれ」  洗面台の棚に置かれていた櫛を手に取った。 【優衣】 「まい・ぶらーし。忘れてたから取りに来ただけよ」 【兄】 「ん」  鏡越しに優衣へ返事をして、歯磨きに集中する。 【優衣】 「ふー……む。……ほ~ぉ」 【兄】 「ん?」 【優衣】 「こうして兄さんと並んで立つ姿を鏡越しに見てみると……ふんふん。  遜色ないわね」 【優衣】 「前までは、並んで立つと私のほうが一方的に幼い感じに映って見え  たけど、さすがにこの歳までになると歳の差と見た目の差は朧気ね」 【優衣】 「はっきりと解るのは身長差だけ。くすっ、服装を気に掛ければ、も  しかすれば私のほうが年上に見られたりもするかも?」  調子に乗ってるな。  なにが遜色ない、だ。  お前から見れば、外見的差は縮まったように感じるのかもしれん。  だが俺から見れば昔も今も、なにも変わらない。  大人びていると錯覚しているようだが、言うほど……  ……まあ、胸はアレだが。 【優衣】 「うん、やっぱり髪を伸ばし続けてるのがいいわね。少し落ち着いた  大人な雰囲気が……」 【優衣】 「あ、いやでも、ストレートヘアはちょっと子供っぽいかしら?」  鏡を見ながらぶつぶつと独り言を言っている。  理屈屋の妹も、所詮は女の子か。  容姿を気にするお年頃ってな。  櫛で髪を梳いている優衣を鏡越しに眺める間に、歯磨きが終わる。 【兄】 「がららら……」  水を吐く。 【優衣】 「終わった? んーどれどれ、ちゃんと磨けてるか確認してみるわ。  ほら、口開けてー……あーん」 【兄】 「いらん」 【優衣】 「くすくすっ、はいはい。いつもの冗談よ」 【優衣】 「それじゃ、行きましょうか」  部屋の電気を消して、優衣と前後して洗面台を後にした。  ……  舞台は変わって俺の部屋だ。 【優衣】 「んっ! んん~~ぅっ!! っはあ、……ふう。あとは寝るだけね」 【優衣】 「お先にお布団失礼しまーす。――とーう!」  ぼふっ 【兄】 「待たれい待たれい!」 【優衣】 「ん、んんぅ……人のベッドに寝るのって、例えようのない特別な感  覚があるのよねー……」 【優衣】 「人が普段使っているベッドを使用するっていう行為が、略奪の快感  を芽生えさせるのかしら」 【優衣】 「妙なドキドキがあるのよねー。特別なイベントって感じ」 【兄】 「お前ちょくちょく俺のこと無視するよな」  もう慣れたけど。 【兄】 「なに自然な体で部屋に入って布団に潜りこんでんだよおいこらさっ  さと出てこいや!」 【優衣】 「にーさん、お小言はなーしっ」  布団を捲る。 【優衣】 「ほら」  ぽんぽんっ 【優衣】 「……おいで?」 【兄】 「……」  あ、やっべーわこれ。  いまのは凄い、我が妹ながらなかなか胸にグッとくるジェスチャー  だっだぜ。  とまあ感心は置いといて。 【兄】 「ったくもー、しかたないなーお前はー」  俺のあからさまの演技に優衣は噴き出していた。 【優衣】 「ん、……っ……ふぅ、は……」  俺の潜り込むスペースを作るために奥へ後ずさっていく。  開けた場へ体を滑り込ませた。 【兄】 「電気消すぞー」  手元のリモコンを操作して、消灯。 【優衣】 「流れで私のほうが壁側にいってるけど、平気? 兄さんの特等席で  しょう」 【兄】 「違うがな」 【優衣】 「ふうーん? ……まあ、たまには違ったスタイルも有りか」 【優衣】 「ふふっ、兄さん? 今日は妙に素直だったんじゃなーい? 本当に  お小言を止めて、布団に潜り込んできたけど?」 【兄】 「寒かっただけだ」 【優衣】 「くすっ。あら、そう? 寒かったのなら仕方ないわねー」 【優衣】 「てっきり私は、布団に誘う所作に魔法を掛けられたのかと思ったわ」 【兄】 「そー、そんなことあるはずがあるまいー」 【優衣】 「ふうん?」  いかがわしいことを考えているような語尾の上がり方。 【優衣】 「そんなに体が寒いって言うんだったら……」 【優衣】 「今日は、抱き合って寝てみない?」 【兄】 「は」 【兄】 「お前、なに言ってんの?」 【優衣】 「だって、そうしたほうが温かいでしょう? たまにはそういうのも  ……ね?」 【優衣】 「毎回同じ寝方じゃつまらないわー。ときにはこういう刺激も必要よ」 【優衣】 「スパイスね、スパイス」 【兄】 「なにがスパイスだ馬鹿」 【優衣】 「辛いのが苦手な兄さんも、こういうスパイスは好きじゃない?  ふふっ、……“甘いスパイス”、でしょう?」  甘いスパイス……。  前回の夜が脳裏に浮かぶ。 【優衣】 「彼女のいない兄さんへの、ちょっとしたお試し~。くすくす、彼女  との添い寝はこんなもんじゃないでしょう? ん~……そりゃーっ」 【兄】 「う、わあ」  思わず変な声が出た。 【優衣】 「ん、ふっ。なに、どうしたの変な声出して」 【兄】 「い、いや、なんでもないなんでもない」  鎮まれ! なにをどきどきしているんだ!  これは妹これは妹これは妹。  なにを焦る必要がある、ただの柔らかくて人肌を持った抱き枕と思  えばいいんだーはっははー。  いかん、人肌とか言ってると温もりを意識してしまう。 【優衣】 「んー、ほーぉら、兄さんも。背中に腕を回して。  背中がさーむーいー」 【兄】 「あ、あぁ」  ペット、ペットだ、これはペット。  ペットを抱き締める感じだ、そうだ、人間じゃない、そうだ。  ……いかん、自分だけの奴隷の認識になってきた。  奴隷という響きに妙な興奮を覚えるのはなぜだろう。  目の前にいる物体に腕を回す。  ぎゅっと抱き寄せる。 【優衣】 「んっ、フ。ぅぅんっ」  嬉しそうに喉を鳴らしている。  あー、なんだこれ。おかしい。  なんでこんなに可愛いんだちくしょうめ。 【優衣】 「ん、……ふ、はぁ。……すぅ、…………はぁぁ」  吐息の生暖かさががパジャマを越えて胸の表面に広がっていく。  は、ははっ。そうか、これが彼女との添い寝なんだな!  なるほどぉ。  身が持たん。 【優衣】 「ぁ……こうして抱きついてみると、すごいわ」 【兄】 「なにがだ……?」 【優衣】 「すん、すん。……濃厚な、兄さんの匂いがする」  うひゃー、なにいっとるんだお主はー。 【優衣】 「人間の鼻って、犬と比べられたりして嗅覚に劣っているみたいに言  われるけど、実際の性能は高性能でね」 【優衣】 「匂いを嗅ぎ分けられるし、同じ匂いを嗅いでいるとその匂いに慣れ  て反応しなくなったりするの」 【優衣】 「……まあ、これは嗅覚じゃなくて脳の問題でもあるんだけど」 【優衣】 「兄さんはもう慣れて、全然気付いていないと思うけど、兄さんの部  屋って独特な匂いに塗れているのよ?」  それってどんな匂いなんだろうか。  気になったが、訊くのは止めておいた。 【優衣】 「すぅ……、ん。兄さんの体からする匂いは、部屋の香りを濃縮した  みたい……」 【兄】 「俺って、そんなに臭いのか?」 【優衣】 「あ、うぅん。臭いとかって言うんじゃないの」 【優衣】 「あー……いや、どうかな。人によっては臭いっていうかも」 【兄】 「どっちだよ」  臭いってことになると、結構胸に刺さるものがあるんですが。 【優衣】 「私は小さい頃から嗅ぎ慣れてるから、そう思わないだけかもしれな  いわ」 【優衣】 「こればっかりは、人に訊いてみないと解らないわねー、くすくす」  ひとたび笑ったかと思うと、胸に顔を埋めて深呼吸を始める。 【優衣】 「すぅぅ……、……ん」 【優衣】 「私は……むしろ」 【優衣】 「安心する、かな」  心臓が跳ねる。 【兄】 「……」  優衣よ、あまりそういう健気なことを言わないでくれるか。  普段は人を小馬鹿にしてるくせに、どうして添い寝のときだけはこ  うも可愛げのあることを言うのか。  俺をからかっているのか。  新手のいじめなのか。  体の奥からふつふつと沸き起こる感情。  これがいじめだとしたら、いじめに喜んでいる俺は相当な変質者だ。 【優衣】 「んー……」  腕の中にいる優衣がもぞもぞと動く。  足の周りに覚える違和感。 【優衣】 「そりゃー。ふふふー、脚絡めちゃったーあ」 【兄】 「『ちゃったー☆』じゃない」 【優衣】 「んんー、だってこうしたほうがあったかいでしょう?」 【優衣】 「熱の伝わりは、空気を介するよりも肌と肌との直接的な触れ合いの  ほうが効率良いわ」 【優衣】 「触れ合う面積が増えれば増えるほど……んふふっ。あったかい……」  身体的接触が増えれば増えるほど温かくなるのは概ね同意しよう。  でもそれは熱を共有していることだけが理由じゃない。  心臓が活発化して血液を循環させていっていることも理由だ。  それは俗に、火照るとも言う。  優衣が匂いを嗅ぐように深呼吸をするたびにパジャマを通して温か  い息が胸をくすぐる。  それが何とも言えない適度な快感で、俺は優衣を制せずにいた。  しばらくして、しなやかに腕に収まっていた優衣の動きが固まった。 【優衣】 「…………。ねえ、兄さん」 【兄】 「ん……?」 【優衣】 「気付かないフリをしたほうが……いい?」 【兄】 「……え」 【兄】 「な、なにに?」 【優衣】 「なににって……、……それは」 【兄】 「……」 【優衣】 「……」  沈黙。  言葉は返さずに、俺はぴくりと反応させた。  馬鹿なことをしてると思う。  口ではしらばっくれながら、自分の意思ではないとばかりに優衣の  腹を押し返しているのだ。  そんな態度に、優衣は腰を押し付けてくることで対抗する。 【兄】 「っ、……」 【優衣】 「ほら……こんなにかちかち」 【優衣】 「私のお腹に触れて、ビクビクさせてるのに……まだとぼける気?」 【兄】 「……認める」  優衣はやれやれと言ったようすだ。 【優衣】 「まったく……。いくら『恋人の真似事』で抱き合ってると言っても、  身体は妹なのよ? 興奮しちゃダメでしょーが……」  胸の辺りを指で非難される。 【優衣】 「抱き付いただけで大きくさせたり、手を握るだけで悦ばせたり……。  純情なんだか、初心なんだか変態なんだか……兄さんってば」 【兄】 「怒ってる?」 【優衣】 「怒ってるんじゃないの。……戸惑ってるだけ」 【優衣】 「兄さんのこういう……変態事情、というか、興奮材料について今ま  で知らなかったから」 【優衣】 「想像以上に単純で……私と兄さんとの私生活にもあるような簡単な  ことを興奮材料にしてるから……なんか、おかしくなりそう」 【優衣】 「全部、兄さんにとっては……って考えると……、何もかも変態に思  えてくる……」  萎んでいく声には、優衣が混乱してる様子がうかがえた。  兄の性癖など、普通は知る由もないだろう。  そして、その単純さに驚き呆れているだろう。  俺でも今まで知らなかったことだ、戸惑っても無理はない。  これで、お互いが性癖について理解をしてしまったわけだ。  私生活に支障が出るだろう。  しかし、昨日の優衣の言葉……  優衣は、俺の性癖がどうであれ日常の不変を望んでいた。  見て見ぬふり、気付いて気付かぬふり。  そうして、上辺だけでもいいから普段どおりに過ごす。  これからはそうしていけばいい。  そうやって心の整理をしたというのに、 【優衣】 「……また……する?」  それなのに、優衣から甘い言葉を掛けられる。 【兄】 「……いや、駄目だろう」  普段どおり宣言を心で誓った以上、そう易々と異常を引き起こして  はならない。 【優衣】 「私は……いい。全然気にしないわ」  俺が気にするっての。 【優衣】 「私がいいって言うなら……兄さんも、いいんでしょ?」 【兄】 「……なんなのその理屈」 【優衣】 「だって、兄さんがしたくない理由って、私を困らせてしまうかもっ  て遠慮でしょ? 見られるのが恥ずかしいとかじゃなくて」 【優衣】 「そういう優しさは有り難い。けど……押しつけがましいのはやめて」 【優衣】 「私の真意は兄さんがはかり知るところじゃない。私の本当の気持ち  は、私が知ってる」 【優衣】 「だから、あとは兄さん次第なのだけど…………どう?」 【優衣】 「妹の前で性欲処理を行う許可を得られても、兄さんは行使しない?」 【優衣】 「我慢して……眠れる?」 【優衣】 「どうするの? ……兄さん」 【兄】 「……」  優衣は許可を出した。  『普段どおり』を要求した優衣が、ベッドの中でのみ『異常』を許  可した。  結局はそうだ、すべて優衣のために固辞していたに過ぎない。  その優衣が代案を出したなら、俺は須らく意見に乗るべしだろう。 【兄】 「……わかった」  身体は正直だ。  心の整理がつく前から、意志表示していた。