Track 5

ベッドでの二人

5  八日目 「ベッドでの二人」  風呂から上がって部屋に戻る。  灯りは点いてない。  そこはいい。元々つけてなかったし。  問題点はそこじゃない。 【兄】 「……」  布団の盛り上がりはなんだ。 【兄】 「おい」  蹴る。 【優衣】 「いたっ、いたっ。蹴るな、踏むな」  布団が喋る。  構わず蹴る。  観念したのか、もぞもぞと中から這い出てきた。 【優衣】 「……蹴るこたないでしょぉ」 【兄】 「なんのようだ」 【優衣】 「……別に。今日にすることはもう終わったし、兄さんの布団に潜り  込んでただけ」 【兄】 「連日だな」 【優衣】 「そう? 連荘ってわけじゃないじゃない。  昨日は別々だったでしょう?」 【兄】 「それは、まあな」  しかし、最近は入り浸りだ。  前までは一週間に一度あるかないかくらいだったはず。 【優衣】 「兄さん、歯は磨いた?」 【兄】 「ん」 【優衣】 「ん。じゃあ」  布団を捲る。 【優衣】 「おいで?」  ぽんぽんと叩く。  ……それセコい。  断れねーっての。 【兄】 「電気消せ」 【優衣】 「ふふっ、はーい」  間延びした返事をして、リモコンを操作する。  消灯した部屋の中は鳥目でもない限りはおぼろげだ。  記憶を頼りに布団に潜り込む。  多少、相手を触れすぎてしまってもご愛嬌。  ベッドの中で自然と向かい合う……形になっているだろうと思う。  吐息の角度、それと少しだけ見える顔の輪郭から判断して、だ。  布団に潜るために必然的に体が横になっただけだ、仰向けに戻そう。 【優衣】 「……子守唄代わりに、お話してあげようか?」 【兄】 「なぜに」 【優衣】 「ちょっと兄さんには小難しいかもしれないお話。でも、少し不思議  で面白いお話」  まあ、気まぐれにはいいかもしれない。  子守唄代わりにさせてもらおうじゃないの。 【兄】 「どうぞ」 【優衣】 「シュレディンガーの猫、っていう思考実験を兄さんは知ってる?」 【兄】 「結構有名だよな」 【優衣】 「あら、意外。兄さんも博識になってきたのかしら」 【兄】 「ふはは」 【兄】 「蓋を開けるまで中がどうなってるのかわからないってやつだっけ?」  箱の中の猫が毒ガスで死んでいるかどうか……とかなんとか。 【優衣】 「箱の中に入った猫。その猫が毒ガスによって死んでいるかどうかは、  蓋を開けて見ないと解らない……というのがシュレディンガーの猫」 【優衣】 「……って、なぜか誤解されて広まっているのよね」 【兄】 「うそん。違うの?」 【優衣】 「そもそも、シュレディンガーの猫っていうのは『目で見るまで、結  果がどうなっているのかは実際のところ解らない』……なんていう  哲学の問題じゃないの」 【優衣】 「量子力学っていう学問の思考実験よ」  量子力学。  どこかで聞いたことのある単語だ。 【優衣】 「量子力学は、電子とか原子とか、分子とか……そういう小さな粒子  の世界に起こる物理を研究する学問よ」 【優衣】 「量子力学には、一つの解釈があるの。それが、『人間が観測するま  で、粒子の位置は確率で決まる』っていうもの」 【優衣】 「これだけ聞くとただの確率論みたいに思えるけど、そうじゃない」 【優衣】 「この解釈のおかしなところは、『粒子は、観測するまでは粒子では  ない』ってところなのよ」 【優衣】 「一粒の粒子ではなく、波のような原型を持たないふわふわとした存  在。まるで幽霊みたいな感じ」 【優衣】 「それが、人間に見つかった瞬間……途端に粒子へと姿を変える。形  をもった物体へと変化する」 【優衣】 「まるで認識論みたいだけど、量子力学は本気でこう考えたの。  そうすれば、量子力学における問題がすべて解決するから」 【優衣】 「不思議な話よね。目には見えないミクロの世界では、そんな常識外  れな現象が起きているなんて……」 【優衣】 「かの有名な、コンピュータを作ったフォン・ノイマンはこの解釈に  ついて、こう付け加えたの」 【優衣】 「人間の意思には、意識には、心には……『可能性』を選択する力を  持っている」 【優衣】 「だから、われわれが観測した瞬間に、ふわふわとしていた存在が粒  子としてそこに表れるのだ、と」 【優衣】 「まるで、人間は得てして超能力者だったのだ……とでも言わんばか  りの解釈だった」 【優衣】 「シュレディンガーの猫は、その解釈の異常さを指摘するために生ま  れたものなの」 【優衣】 「ミクロの世界だけの話として生まれた解釈を、マクロの世界でも適  用されることをシュレディンガーの猫では明らかにした」 【優衣】 「箱の中には確実に『猫』がいる」 【優衣】 「けど、その『猫』は死んでる状態で入っているわけでも、生きてい  る状態で入っているわけでもない」 【優衣】 「猫の生死は、蓋を開けて初めて確立するの」 【優衣】 「蓋を開けるまでは猫は生きてもいないし死んでもいない。その両方  の状態で、本当に、実際に、存在している」 【優衣】 「生きている状態と死んでいる状態……という『可能性』だけが重ね  合わせ状態で存在しているの」 【優衣】 「それっておかしくない?」 【優衣】 「だって箱の中には確実に『猫』がいるわけだから、死んでいる『猫』  か生きている『猫』のどちらかが存在しているはずよ」 【優衣】 「『猫』の存在が『可能性』に転換されるなんて有り得ない……。  現実的な了見で、シュレディンガーは量子力学の解釈を否定したの」 【優衣】 「そんなの、普通に考えて可笑しいじゃない? ……と唱えるのが、  このシュレディンガーの猫の本当の意図」 【優衣】 「蓋を開けるまで解らない……そんなのはおかしい、蓋を開ける前か  ら生きているか死んでいるかは決まっていて、われわれは蓋を開け  たとき、決定した結果を見ているに過ぎないはずだって、シュレデ  ィンガーは言いたかったのよ」 【優衣】 「別に決定論を唱えたわけじゃない。観測していないからといって、  存在自体を『可能性』なんてものに変換する強引さを嘆いただけ」 【優衣】 「……彼は、シュレディンガー方程式っていう量子力学において必要  不可欠な基礎方程式を導き出したまでの人よ」 【優衣】 「それでも、彼はこの解釈が気に食わなかったのね」 【優衣】 「シュレディンガーの猫を残して、のちに彼は物理学者をやめたわ」 【優衣】 「愚かな解釈を作る要因を担ったことを後悔したのね」 【優衣】 「かのアインシュタインは、量子力学の解釈については否定的だった。  けれど、彼のお陰で量子力学は分野として発展していったの」 【優衣】 「アインシュタインが量子力学の矛盾点を指摘するたび、学者たちは  血眼になって反論を導きだす」 【優衣】 「アインシュタインは量子力学を破綻させたかったのだけれど……  皮肉なものね」 【優衣】 「結果的に、彼の指摘は量子力学に秘められた可能性を引き出すきっ  かけとなったの」 【優衣】 「有り得ないという指摘を、有り得ると返すことができたんだもの。  常識を超えた世界を持つことをことごとく証明していったのよ」 【優衣】 「その一つが、量子テレポートっていうもの」 【優衣】 「これは、対になった粒子が情報を共有するってものなの」 【優衣】 「簡単に言えば、一つの粒子をコマのように回すともう片方も回るっ  ていう仕組み」 【優衣】 「これはどんなに離れていたって成立するの。たとえ地球と銀河の果  ての距離でも、この情報は共有する」 【優衣】 「人間が作った機械ならば、これら二つの対は何らかの方法をもって  して情報を伝える必要があるの」 【優衣】 「けど、量子テレポートは違う」 【優衣】 「これらのやり取りには、そういった目に見えるやり取りは存在しな  い」 【優衣】 「量子力学の解釈って、ある意味言葉遊びみたいなところがあるのよ」 【優衣】 「観測するまで、振る舞いは決まらない。観測した瞬間、可能性は収  束する」 【優衣】 「ならば、対になった粒子は片方を観測すればもう片方の振る舞いも  自然に決まるんじゃないのか」 【優衣】 「……まるでとんちみたいね」 【優衣】 「一休さんもビックリな、科学者同士の本気の言い合いだったんじゃ  ないかしら」 【兄】 「……」 【優衣】 「……やっぱり、ちょっと難しかった?」 【兄】 「……」 【優衣】 「? ……兄さん」  ゆさゆさ 【優衣】 「……寝ちゃった?」 【兄】 「ぐうぐう」  寝息を立てる。  まあホントは起きてるんですけどね。 【優衣】 「……そ」  特に怒るような素振りもなく、揺さぶる手を止めた。 【優衣】 「おやすみなさい、兄さん」  今日は何事もなく眠ることになりそうだ。