ただの日常:ニオイ
6
九日目
「ただの日常:ニオイ」
翌朝のこと。
【優衣】
「あ。おはよう、兄さん」
例によって、階下に向かうと優衣がいた。
【優衣】
「今日はちょっと遅起き?」
【兄】
「ちょっとな」
まだ欠伸が出る。
【優衣】
「昨日夜更かししすぎちゃったからかしら……」
【兄】
「あー……」
日中にベッドでの行為に触れたことは一度もない。
優衣はどうか知らないが、俺としては日常には紛らせたくない一件
だからだ。
今のは微妙なライン、一寸の差でセーフ。
【優衣】
「何か飲む?」
【兄】
「もらおう」
【優衣】
「兄さんのルーティンなら、コーヒー?」
【兄】
「コンポタは」
【優衣】
「ポタージュは全部飲んじゃった。たは」
“たは”、て。
【優衣】
「いつもと違うのがいいなら、お茶にする?
お父さんが持って帰った、お土産の玉露があるわよ」
【優衣】
「美味しくない紅茶もある」
【兄】
「なにその『美味しくない紅茶』て」
【優衣】
「美味しくないのよ。安いからって買ってきたみたいで、これがまあ
本当に美味しくないの」
【兄】
「飲んでみたい」
【優衣】
「……本気?」
【兄】
「誰も飲まないんだろう? 勿体ないし、試しに一つくらい」
【優衣】
「まあ、止めはしないわ。飲むのは兄さんだし」
【優衣】
「じゃあ、ちょっと待ってて」
寝起きの辛いときにテキパキと動いてくれる優衣はなんと輝いて見
えることか。
感謝の言葉もない。
すでにストーブは点火されていた。
当分前に優衣が起きていることは確かなようだ、部屋も暖かい。
ストーブの前を陣取って寝起きの体を温めていると、優衣が近寄っ
てくる。
【優衣】
「はい、どうぞ」
熱いところに触れないように慎重に受け取る。
【兄】
「ふむ」
香りは問題なさそうだ。
カップから垂れた紐をくいくいしていると、紐のつまみのところに
目がいった。
リ○トンだ。
そこそこ有名メーカーじゃないか。
【兄】
「不味いのか」
【優衣】
「ときどき紅茶嫌いの人を見かけるけど、たぶん常にこういう味を感
じてるんだろうなっていう不味さよ」
【優衣】
「きっと紅茶嫌いが憤死するわね」
【兄】
「アンチ紅茶殺しだな」
一口飲んでみる。
【優衣】
「……どう?」
【兄】
「……」
少し口の中を巡らせて、喉を通らす。
【兄】
「変な味」
【優衣】
「ふふっ、だから言ったでしょー? 美味しくないって」
【兄】
「……なんで嬉しそうなんですかね」
【優衣】
「共通理解を得られれば、誰だって嬉しくなるものよ。
異端じゃないって思えるでしょ?」
【優衣】
「たとえ、私と兄さんだけが『変な味』って思っていたとしても、
兄さんも仲間なわけだし。孤独感は紛れるわ」
みんなで渡れば怖くない精神か。
【優衣】
「どうする? 別の淹れる?」
【兄】
「……いや、案外クセになるかもしれんし」
香りだけはいいからな。
【優衣】
「そう。……ちなみに私は一口飲んですぐに流し台だったわ」
【兄】
「耐性ひっく!」
【優衣】
「……兄さんは、誤飲をしたことがないからそう思えるのよ」
【優衣】
「兄さんにはわかるかしら? ウチに帰ってきた喉がカラカラの状態
で、キンキンに冷えた麦茶かと思って飲んでみたらめんつゆだった
ときの衝撃が」
【兄】
「すっごく限定的」
【優衣】
「口の中はもう麦茶になってるのよ? そこにめんつゆが流し込まれ
ても単に麦茶が腐ってるって思うしかない」
【優衣】
「身を守るためには、すぐに吐き出すしかないのよ」
【兄】
「そもそもめんつゆは飲み物じゃないからね?」
【優衣】
「私もこの紅茶を飲んだとき、真っ先に賞味期限を疑ったわ。安価で
買ってきたみたいだし、絶対的に問題があるはずよ」
【優衣】
「けど、そうじゃなかったみたい。純粋に美味しくないから売れなく
て、安売りされてるだけだったのよ」
賞味期限も切れていないのにこの味を出す商品。
はっきり言って、異常だ。
【優衣】
「香りはいいんだけど」
【兄】
「わかる。すっごくわかる」
【優衣】
「ね。香りだけはいいのよね」
【兄】
「“だけは”て。……いや、そう思うけども」
【優衣】
「……もしかしたら、この香りを良いと思っているのも、私と兄さん
だけなのかも」
【兄】
「いや、少なくとも発売元は良い香りって思ってるんじゃないか?」
【優衣】
「それもそうね、無駄な考察だったわ」
淹れたての紅茶を呷ることはできない。火傷してしまう。
なるべく味わわずに、少量を口の中に入れてさっと流し込む。
喉を通る際に匂いが鼻を抜けて……うむ、こうすれば悪くないかも
しれん。
酒かて最初はそうだった、味は悪いし匂いも好かんしで受け付けな
かった。
いつの間にか『酒はそういうもんだ』って思うようになって、あと
は何も思わず飲めるようになった。
そんなもんだ。
【優衣】
「兄さんって、好きな匂いとかあるの?」
【兄】
「とか、ってなんだ」
【優衣】
「匂いにも種類があるでしょう? 単に芳香剤として売られているよ
うな万人向けの良い香りと、好き嫌いの別れる独特な香り」
【優衣】
「そういう意味で『とか』ってつけたの。……まあただの揚げ足取り
でしょうけど」
全くもって身も蓋もない言い草だ。
正解だが。
【兄】
「好みが分かれるってんなら、ガソリンのニオイか」
【優衣】
「石油系のニオイ? あれが好きなの」
【兄】
「小学校の通学路の途中にあるだろう? ガソリンスタンド」
頷く。
【兄】
「毎日あそこの前を通るのが密かな楽しみだったりしたわけ」
【優衣】
「へぇ……確かに、石油系のニオイが好きっていう人は一定数存在す
るわね」
【兄】
「お前は違うのか?」
【優衣】
「私はどっちでもないわ。特別、嫌ってほどでもないけど、好きでも
ないわね」
【兄】
「そうか……」
男は基本的にあのニオイが好きなやつが多いと思う。
少なくとも、俺の周りでは。
やはり、車に使う燃料という意味で、幼心から大人の憧れみたいな
ものがあったのだろうか。
引火性が高いというのも男子心をくすぐるポイントでもある。
なんか、ちょっと扱いを間違えると大惨事になるようなものに惹か
れてしまうところがあるのだ。
得てして男とはスリルを求めるものなり、ってな。
【優衣】
「……どうして人によって好き嫌いが分かれるニオイが存在するのか
しらね」
【兄】
「というと?」
【優衣】
「普通の芳香剤は科学的に良い香りと評されていて……例えば、香木
を使ったアロマなんていうのは、香りとともに効能も存在している」
【優衣】
「リラックス効果があるーっていうでしょ?」
【兄】
「言うな」
【優衣】
「じゃあ、さっきのガソリンの話になるけど。ガソリンは『好き』っ
て言う人もいれば『そうでもない』って人もいる」
【優衣】
「それって要は、科学的に『良い香り』とは評されていないっていう
ことよ」
【兄】
「なるほろ」
科学的、医学的に『人間にとって良い香り』とされているものがア
ロマテラピーに使われるわけだ。
良い香りを嗅げばリラックス効果がある。効能として、それは当た
り前だろう。
では、ガソリンなどの好き嫌いが分かれるものはどうか。
あれを決して良い匂いとは認めない者もいれば、そうでない者もい
る。
両者両様に分かれるのは、科学的に『人間が好きとされるニオイ』
だとされていないからだろう。
【優衣】
「じゃあどうして、好きな人は好きで、嫌いな人は嫌いな『匂い』が
存在するのかしら」
【兄】
「簡単に言えば、好みっていう話に帰結するんじゃないか」
【優衣】
「好み、ね」
落胆する顔つき。
【兄】
「んだよ」
【優衣】
「それを言っちゃったら、全部が終わっちゃうわ。人それぞれってい
う言葉は、話し合いをあっという間に終結させちゃう禁句よ」
【兄】
「そうボロカスに言わんでも……」
【優衣】
「でも、真理と言えば真理なのよね」
【兄】
「お前から折れるんかい」
【優衣】
「それがただの詭弁なら『屁理屈だ』って言って話し合いを続ければ
いいわけだし」
【優衣】
「まあだからこその禁句なのよね」
【優衣】
「……結局、そのニオイが好きなのかどうかは、その人が過ごした環
境による部分が強いのでしょうね」
【優衣】
「普通、人が嫌う匂いでも、慣れてしまえばそれが当たり前になるわ
けで」
【優衣】
「母親の匂いに安心感を覚える人間が多いのは、それだけ幼少期に母
親から与えられる影響が強いってことなんでしょうね」
【優衣】
「私も……たぶん……」
一度言葉を切ると、そのまま黙ってしまった。
ただの妹の思い出話だ、あまり興味はない。
深く追求するのはやめた。
そのまま続く沈黙を肴に紅茶を啜るというなんとも度し難い行為を
していると、優衣の視線に気付いた。
横目で覗く感じ。
無視していても視線を逸らす様子もないので、こちらも目を向ける。
逸らすことはない。
何か言いたいことでもあるのだろう。
【優衣】
「兄さんは……私のニオイ、好き?」
紅茶を飲み込む喉が慌てた。
なんとか飲み干して言葉を返す。
【兄】
「……におい?」
眉を顰める。
【兄】
「そもそも人にニオイってあるもんなのか」
【優衣】
「質問を質問で返さないで」
【優衣】
「……そりゃあ、あれでしょうよ。人のニオイっていうのは……体臭
ってこと?」
【兄】
「お前に体臭があると」
【優衣】
「あ……いや。ぅー……そっか、私に体臭があるっていうことになる
と……ちょっとショックね」
【兄】
「そうだろう。だからお前にニオイなど存在しないのだ。ふはは」
よし、言い逃れできたぞ。
新たな変態性をほじくり出されるところだった。
【優衣】
「……私って、体臭ある?」
【兄】
「え? いや、ないと思うぞ」
【優衣】
「憶測で言ってない? ちゃんと嗅いだことある?」
妹の体臭をちゃんと嗅ぐってなんだ。
変態か。
【兄】
「添い寝してるとき、大して匂ったことは……」
【優衣】
「添い寝するときは、いっつも兄さんのベッドでしょ?
つまりは兄さんの牙城よ。兄さんの体臭で上書きされてるわ」
【兄】
「人のことを体臭塗れみたいに言いやがってこんにゃろう……」
【優衣】
「自分が体臭塗れかどうかは、やっぱり気になるもの。こんなことは
他人には聞けないし……」
【優衣】
「兄さんがこれだけ体臭塗れなら、遺伝子情報上、私にもその可能性
はあるわけだし」
【兄】
「朝っぱらから兄への貶しがきついです」
【優衣】
「……もう。兄さんを貶してるつもりはないわよ。
この前も言ったでしょ? 兄さんのニオイは臭くないって」
【優衣】
「まあ、他人がどう思うかは知らないけれど?」
【兄】
「そこ重要! 一番重要よ!?」
【優衣】
「くすっ、まったく……我が儘ね」
【優衣】
「まあ兄さんの話は置いといて。いまは私の話」
自分至上主義者め。
【優衣】
「耳の裏とかってよく聞かない? ……まあ実際は耳の裏は体臭の元
じゃないんだけど……とにかく嗅いでみて」
【優衣】
「何かの手掛かりになるかも」
【兄】
「そんな曖昧な」
【優衣】
「ほら、はやく」
目を瞑って首を傾ける。
吸血鬼に血を提供するような恰好だ。
白い首筋の奥にうなじがちらりと見える。
あそこを嗅ぐのか……。
【兄】
「……し」
【兄】
「しかたない」
なにが仕方ないのかわからんが、仕方ないのだ。
こいつの懸念を払拭するためには、思い通りの行動を起こして結論
を出す他ないのだ。
仕方ないな。
両肩を掴んで、顔を寄せる。
肩の前に流れる後ろ髪を背中に流してやる。
眼下に表れたうなじに鼻を寄せて……一息。
【優衣】
「ひゃぅ」
【兄】
「こ、こら」
【優衣】
「ご、ごめんなさい。息がくすぐったくて」
苦笑いをしている。
妙な雰囲気が出来あがっていた。
【優衣】
「……どう? におう?」
【兄】
「まだなんとも……」
【優衣】
「そう。……じゃあ、わかるまで待ってる」
つまり、いつまで嗅ぐかは俺の裁量による。
長くこの体勢を続ける理由はない、さっさと終わらせてしまおう。
【兄】
「……」
すんすん、と嗅ぐ。
【優衣】
「……」
優衣はじっとしている。
息遣いから察するに、すでに落ち着いているようだ。
それでも、少しばかり不安そうでもある。
構わず息を吸う。
細微まで嗅ぎ取ろうと息継ぎ早に嗅いでみる。
ふむ……。
仕上げにとばかり深呼吸。
優衣の肩が少しだけピクリとした。
【兄】
「ん……」
ニオイはしない。
ニオイはしないが、鼻腔をくすぐる何かがある。
無臭の何かが呼吸のたびに俺の体内に入り込んでくる。
そして、その何かが俺の脳髄を巡り、何かをしている。
何かをしているから、こんな気持ちになるんだ。
優衣の首筋、うなじ……髪、息遣い。
至近距離でそれを感ぜられて、俺は自然と……優衣の首元に唇を添
えた。
【優衣】
「ふひゃ」
優衣は驚いたように声を上げた。
【優衣】
「な、なんで首にキスしてるっ、の?」
言われて考える。
どうしてだろう?
特に理由はない気がする。
特に理由がないのだから、釈明のしようがない。
【兄】
「……えーと」
【兄】
「特に理由はない、すまん」
【優衣】
「理由がないのにしたのっ?」
【優衣】
「じゃあなに? 兄さんは人の首をみたら何も考えずにキスしちゃう
ような人なのっ?」
【兄】
「すまん」
【優衣】
「『すまん』じゃなくてぇ……」
【兄】
「すまない」
【優衣】
「ぅ……いや、もういいです。別に謝ってほしいんじゃないもの」
【優衣】
「……それで、ニオイのことなのだけれど」
【兄】
「あ、あぁ……」
ニオイは……しただろうか。
【兄】
「ニオイは……しなかった」
【優衣】
「……そう。ニオイはしなかったの」
【兄】
「ただ……」
【優衣】
「? ただ?」
【兄】
「無臭の……何かがあった」
【優衣】
「無臭の、なにか? ……窒素とか酸素とか?」
それは空気だ。
【兄】
「何なのかはわからんが、でも確かにあった」
【兄】
「それがあったから、あんなことをしたんだと思う」
【優衣】
「……」
少し考える仕草。
俺は、もう嗅ぐ必要もなくなったので優衣から離れることにした。
優衣の顔は赤く染まっている。
ストーブに当たり過ぎたのだろう。
【優衣】
「ま……まあ、よくわからないけれども、その何らかのニオイが兄さ
んを……大胆――いや、変にさせたのね」
【優衣】
「なるほど……。
……全くっ、見当がつかないわねっ」
【兄】
「……何を焦ってる」
【優衣】
「焦ってない。……いや、焦ってるけど、でも……
いや焦ってない焦ってない。違う、違うの……」
【兄】
「はあ?」
【優衣】
「はぁぁー、もうナニこれぇ……。ぅぅ~、心がわさわさするぅ……。
変よ、絶対ヘン……」
【兄】
「……お前、心当たりあるだろう」
【優衣】
「へ。え!? な、なにが?」
【兄】
「だから、無臭の元」
【優衣】
「あ、ああ~~~~そうね~~~~」
視線があっちこっちに向いている。
優衣のこんな様子は初めて見る。
【優衣】
「無臭の出処は、まあ、うん。一つだけ……思い浮かばないこともな
いわ」
【兄】
「ほほう、さすがだな」
【兄】
「それで? なんだ」
【優衣】
「……」
チラチラとこちらを窺っている。
なんだ、全然わからん。
何を恥ずかしがってる。
【優衣】
「……たぶん」
【優衣】
「たぶん…………フ……ふ、ふぇろもん……だと……おも、ぅ」
語尾は萎んでしまって聞き取れなかった。
【兄】
「ふぇろ?」
【優衣】
「……もん」
【兄】
「ふぇろもん」
【優衣】
「そう。ふぇろもん」
【兄】
「フェロモン?」
【優衣】
「何回も訊かないでえ。フェロモンっ、フェロモンです!」
はっはあ~、フェロモン?
なるほど、フェロモンか。
……で、フェロモンってなんだっけ。
【兄】
「フェロモンは知ってる」
【兄】
「けど、よくは知らない。どういうものなんだ?」
【優衣】
「……わ、私だってっ、よく知らないわよっ」
どうして今日は一段と嘘が下手くそなんだ。
戸惑い過ぎて自分を失い過ぎだろう。
【兄】
「そうか」
【兄】
「で? フェロモンってなんだ?」
【優衣】
「だからぁ……知らないってば……」
【兄】
「なんでそんなに今日は嘘がへったくそなんだ」
【優衣】
「う。……う。ううぅぅぅー……」
勢いよく立ち上がる。
【優衣】
「く、詳しく知りたいならっ、自分で調べれば!? 変態!!」
逃げた。
【兄】
「変態いうな」
変態だけど。
それにしても、優衣のあの様子……。
何か大きな獲物を釣り上げてしまったらしい。
それがどういうものなのかはまだわからないが……。
時間があるときに図書館にでも行ってみるか。