第二夜
<左 普通>
それでは、お話の続きを致しましょうか。
錬金術の奥義を授かった漁師は、魔神が封じられていた壺を市場に持って行きました。
横に浮かぶ魔神の姿は、向こうが透けて見える程薄くなっています。
魔神が言うには、魔術で漁師以外には見えなくしたのだそうです。
実際、恐ろしい魔神がかたわらに居るというのに、市を行きかう人だかりは誰も驚いた様子も見せません。
<右 近い 囁き>
(胸が圧されて出る声)んっ。
「そうですよ旦那、そんな忌々しい壺、さっさと売ってしまいましょうよ」
<左 普通>
魔神が、手をもみもみ囁いてきます。
漁師は逡巡しました。
あら? どうされましたか?
右のお耳は魔神の言葉、そのようにした方が雰囲気が出るかと思ったのですが。
(とぼけて)えっ? 当たってる、ですか?
何か当たってしまいましたか?
んー、マスターがお嫌でしたらやめるように致しますが。
はあ、嫌では無いのですね。
それならば、よいのですが。
<右 近い 囁き>
んっ。
「それとも旦那。こういうのが、お好き、なんですか?」
ふふっ。
<左 普通>
魔神は、からかうように言います。
漁師は、考えました。
果たして、この壺を売ってしまっても良いのでしょうか。
売ってしまえば、魔神を封じる物は無くなってしまうのですから。
とは言っても、前に魔神を閉じ込めたのも、魔神から壺に入ったからであって、漁師の意志で押し込めるわけではありません。
何より、必要なのは先立つ物です。
幸い、ピカピカに磨いた壺は、漁師が思ったよりも良い値が付きました。
そんな高値で買ってもらえたのは、魔神が、商人の耳にこう囁いていたのも関係していたのでしょうか。
<右 近い 囁き>
んっ。
「ほら、立派だろう。ほら、良い物だろう。ほら、触れてみたいだろう。ほら、やわらか……」
あら、すみません。硬い物でしたね、壺は。
わたくしとしたことが、言い間違えてしまいましたわ。ふふっ。
<左 普通>
そんな事もあってか、結構な額を出してもらえました。
しかし、それだけではまだ足りません。
ええ、錬金術とは、何かと金(かね)のかかるものなのです。
漁師は、家に帰って妻にも話します。
家を質に入れる、そんな突拍子もない話をされて妻は反対しました。
当然の反応でございます。
魚を獲って生計を建てていた男が、急に金を作ると言い出して誰が信用できるでしょう。
しかし、反対していた妻も漁師の目を見て頷きました。
漁師の瞳には、狂気はかけらも無く、確信に満ち満ちておりました。
それも当然の事、漁師は錬金術が成功すると知っていたのですから。
錬金術を極めた漁師からすれば、それは薪を燃やせば炭になるのと同様に、自明の事だったのです。
足りないのは、ただ資金だけでした。
妻はそればかりか、「これも使ってくださいまし」と、手首から金の腕輪を外しました。
それは、嫁入りの際に漁師の父親から贈られた大切な物であり、いざという時の蓄えでした。
自分の事を信用してくれる、なんと良い妻を持ったものだ。
俺は幸せ者だと、漁師は喜びました。
が、漁師は気づいておりませんでした。
自分の背後で魔神が、妻に手のひらを向けていた事を。
そうされた妻の目は、たちまち焦点を失ったのでした。
そうこうして当面の資金はできました。
資金が集まれば、次はその資金の使い道、錬金術の道具です。
しかし、辺鄙な漁村で錬金術に必要な道具を買うのは無理な話。
ですから、一家は町へと向かうことにしました。
人は、水辺に暮らすもの。
乾燥したアラビア半島では、水はとても貴重で、必然として町の間には大きな隔たりがございます。
故に村を離れれば、目に映るものは二つ。
無窮の空と、無窮の砂と。
それらを分かつはずの地平線は、陽炎ににじんで。
夜が来れば、明瞭さを取り戻した地平線に星は降り、砂の一粒へと変わる。
これ程の砂が積もるのに、どれだけの時間が流れただろうか。
そんな空想にいざなう、アラビアの夜のしじま。
そして、夜が明ければまた歩く。
やがて、空と砂の狭間に目指す物が見えてきました。
砂と同じ色をした城壁が。
町のぐるりには壁があり、門には衛兵がおります。
通るには通行手形が必要となりますが、漁師は田舎者ですから、そんな事はつゆとも知りません。
不審者を壁の中に入れないのが衛兵の仕事です。
ですから、漁師はつまみ出されるはずでした。
ところが、衛兵達は漁師の姿を認めると一斉に、「あなたの上に平安を!」と叫んで右手を前方に掲げ、敬礼を以て迎えました。
ギョッと戸惑う一家とは対照的に、魔神は鷹揚に頷いて門をくぐりました。
門の内側は、直線と直角で描(えが)かれた石造りの世界。
その中で、モスクのドームだけが優美な曲線を見せ、尖ったミナレットが陽光に照り映えておりました。(なお、他の箇所に合わせるならば、モスクはマスジド、ミナレットはマナーラとアラビア語の読みにするべきでしょうが、さすがに聴き手に伝わらないので英語の読みにしてあります)
一家は、その重厚な存在感に圧倒されました。
さて、マスターは錬金術について、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
わたくしどもにとっては、臭い、汚い、おまけにうさん臭い、という感じでした。
硫黄だとかを燃やすものですから臭くてたまりませんし、ススや得体の知れない物やで汚れております。
そんなわけで住民に煙たがられて、錬金術師の工房など、まともな場所に構えられるものではありません。
ですから、錬金術師は貧民街の片隅に居を構えるのが普通でした。
それに、錬金術などというものが、そうそう成功するはずもありません。
万年金欠の彼らは、金持ちをペテンにかけて金(かね)をもぎ取ってやろうと、虎視眈々と狙っていたのです。
錬金術で金を作ったように見せて、もっと金を作るには研究資金が必要だと言うのです。
その方法と言ったら、材料に使う銅の中にあらかじめ金を入れておいたり、鍋を二重底にして金を隠しておいたりとお粗末なものでした。
そんなものですから、錬金術師と言えば詐欺師の代名詞のように語られていました。
そんな連中の為の道具が、普通に売られていると思われますか?
その大半はオーダーメイド、錬金術の道具を揃えるのも一苦労なのです。
ですので、手っ取り早い方法を取りました
先程申し上げたように、二流、三流の錬金術師は金欠ですから、金(かね)を払えば工房を借りる事ができました。
いえ、大切な工房を貸さざるを得ない程金欠だったと言った方が正しいでしょうか。
ここでも漁師の背後で、魔神があれこれしていたわけではありますが。
まあ、金(かね)や腕は無くとも、プライドは高いと面倒臭いのがそのような手合い。
ここは、話を早くしてくれた魔神の肩を持ちましょう。
そんな二流、三流と申しましても錬金術師でございます。
ビーカーにフラスコ、錬成炉、ランプに火鉢、やっとこにふいご、乳鉢に乳棒、そしてアランビックと呼ばれる蒸留器などなど、質はともあれ必要な物は一式揃っておりました。
錬金術を極めた漁師の目には、それらの道具を用いて金を作る光景がありありと浮かびます。
残る物は材料だけ。
辰砂(シンシャ)と硫黄、それと薪です。
辰砂と硫黄は、工房にあった物をついでに買い取りました。
薪は、少々値が張っても良質なレバノン杉の物を集めました。
微妙な加熱の加減が重要だからです。
この工房の持ち主は、そういう所に気が回らないから三流なのです。
さて、金の錬成には、四つの工程がございます。
第一は、理想的な水銀を抽出する工程。
第二は、理想的な硫黄を抽出する工程。
第三は、理想的な水銀と硫黄から、賢者の石を作る工程。
第四は、いよいよ賢者の石を使って、卑金属を金にする工程です。
ですので、漁師はまず、理想的な水銀の抽出から始めました。
辰砂を蒸留器に入れて熱しますと、水銀が得られます。
その水銀を再度、火にかけて蒸留する事、九回。
こうして蒸留を繰り返す事で、不純物の無い理想的な水銀が得られます。
錬金術師ジャービル曰く、「金とは理想的な水銀と硫黄が正確な比率で完全に結合した物である」。
不純物を含む理想的でない水銀を用いれば、金にはならず、卑金属が出来あがってしまいます。
この蒸留の工程を怠らないのが、二流と三流の分かれ目でございます。
同様に、硫黄を蒸留する事、九回。
これで、理想的な水銀と硫黄が出来あがりました。
さて、次がいよいよ一流と二流の分かれ目、賢者の石の作成です。
万物は、四つの属性から成る物。
四つとは熱と冷気、乾燥と湿潤です。
水銀とはひんやりとした液体、つまりは冷気と湿潤の属性を持った金属。
硫黄とはよく燃える固体、こちらは反対に熱と乾燥の属性を持った物質です。
この水銀と硫黄の配分を変えれば、あらゆる金属が作られるわけです。
例えば、鉄を粉末にするとよく燃えるのは、硫黄の性質が強いから。
鉛が、柔らかく溶けやすいのは、水銀の性質が強いからと言った具合です。
水銀と硫黄を適切な配分で、「哲学者の卵」と呼ばれる首の長いフラスコに入れ、ヘルメスの印璽で封をします。
哲学者の卵を、アタノールと呼ばれる錬成炉に入れ、火力を一定に保ち加熱すると、水銀と硫黄は結合して腐敗し、黒よりも黒い黒色の死体となります。
更に過熱を続ければ、黒色は薄れ、時間と共にクジャクの尾のように多様な色彩に変化し、黒い塊は最後に輝かしい白色に復活を遂げます。
そして、更に温度を上げて加熱する事、一週間、白い物は透き通った深い赤色へと変わりました。
この赤色の物質は、熱くも無く、冷たくも無く、乾いても無く、湿っても無く、硬くも無く、柔らかくも無い不思議な物質でした。
ジャービルはこの物質を、卑金属の病を治して完全な金属、つまりは金にする薬であるとし、アラビア語にて至高の治療薬を意味する、「アル・イクシール」と名付けました。
これこそが、賢者の石でございます。
さて、この長大な工程を経て得られた賢者の石は、手のひらに収まってしまう程わずかの量。
しかし、その効果は絶大です。
先程、賢者の石を治療薬と申しましたね。
では、マスターが病にかかったとして、その病気を治療するのにいか程の量の薬が必要でしょう?
マスターの体重と同じくらい必要でしょうか?
いえいえ、それはほんの少々かと思われます。
賢者の石も然り。
一説には、二十七万二千三百三十倍の重さの鉛を金に変える事ができたと伝えられます。
つまりこの時、漁師の手には一国をも揺るがす程の力が握られていたのでございます。
そんな人物を漁師と呼ぶのは、ふさわしく無いでしょう。
この偉業を以て、漁師という呼称を改め錬金術師と致しましょうか。
錬金術師は、賢者の石をほんのひとかけ削り取り、鍋で熱した鉛の中に落としました。
すると鉛は、目もくらむような輝きを放ち、鍋の底に現れたのはどこからどう見ても黄金です。
それが両手に余る程も。
漁師をしていたならば、一生かかっても稼げなかった量です。
錬金術師は、「ほらな、言った通りだろう」と妻に向かって胸を張りました。
開いた口が塞がらない妻を見て、いかにも満足気です。
金への変成ができたら、一番にする事は決めてありました。
錬金術師は、妻の手を取ります。
「俺の申し出を聞いてくれて、ありがとよ。
お前の両手に金の腕輪をはめてやろう、前のよりもっと立派なやつをな。
心配をかけただろう?
今日はお祝いにしようじゃないか、一度ラム肉というのを食べてみたかったんだ。
そうだ、この工房を貸してくれたやつにも礼をはずんでやらないとな」
そう言って、金を革袋に入れ、賢者の石を懐にしまい、意気揚々と出かけて行きました。
革袋はずしりと重くとも、かえってそれが心地良く、自然と目線も高くなりました。
街並みも、違って見えてきます。
色彩溢れる市場。
シナモンにローレル、クミン、ターメリック、コリアンダー、カルダモン。
活気に満ちた往来によってブレンドされた、かぐわしい香辛料の香り。
コショウやナツメグと言った、話にしか聞いた事のない物の姿も。
それは、船乗りシンドバッドも命を懸けて運んだ高級品。
それらを店の奥から貴婦人の如く見下ろすサフランは、陽光を撚(よ)り合わせたような紅色で。
見る物全て、刺激にあふれ。
錬金術師は、いかにも田舎者丸出しのていで、きょろきょろ目移りしながら市場を歩いておりました。
ふとその耳に、市場の活気に似つかわしくない憐れみをこう声が聞こえて来ます。
「おお、私はかつては衛兵でしたが、膝に蛮族の矢を受けてしまいました。
この哀れな老いぼれめに、どうかお慈悲を」
声の先には階段に腰掛けた老人が、裾をたくし上げて左膝を見せておりました。
痩せた膝には、矢の痕が痛々しく浮いています。
その前では人々が足を止め、小銭や食料を施しておりました。
<右 近い 囁き>
「旦那も施してやってはいかがですか?
喜捨は天国行きの善行ですぜ。
ほら、旦那にはコイツがあるじゃないですか。
誰にも真似できない、立派な善を積めますぜ」
<左 普通>
魔神はそう囁いて、ポンポンと錬金術師の懐を叩きます。
<左 近い 囁き>
あら、マスター、たくましいお体をされているんですね。ふふっ。
<左 普通>
「ふむ、そうだな」
錬金術師は、浮かれておりました。
油屋を見つけると、小さな椀とそれに一杯のゴマ油を求めました。
「お代はこれでいいか?」と、革袋の中をごそごそとし、一つ取り出して店主に握らせました。
油屋の店主は、手を開いてギョッとします。
それは、かめごと買えようという量の金の粒でした。
店主は、錬金術師を呼び止めようとしたものの、その背中は既に雑踏の中に消えてしまっていました。
錬金術師は、人通りの少ない所まで来ると、壁を向いて懐を探りました。
賢者の石を取り出してゴマ油の入った椀にポチャンと落とすと、賢者の石から血の様に赤い筋がくゆりました。
人差し指をつっこんでくるくるとかき混ぜると、賢者の石を取り出して、付いた油を服の裾でぬぐい、また懐にしまいました。
椀の中のゴマ油は、ルビーのように赤く輝く液体に変わっておりました。
錬金術師は、その椀を持って、老人の所へ行きます。
「脚を見せなさい」
そう言うと、いぶかしむ老人の膝に椀の中身を塗ってやります。
「これで立てるだろう。ほら、手を貸して」
錬金術師は、老人の手を取りました。
「いや、旦那、何をなさるんで、ちょっとご勘弁を」
上ずった声を上げる老人を無理やり立ち上がらせると、手を離してみせました。
するとどうでしょう、老人は自分の脚で立っているではありませんか。
驚く事に、膝の傷跡もすっかり消えて、血色の良い肌を見せています。
老人は左の脚で、地面をパンパンと踏み鳴らしてみました。
痛くありません、全くの平気です。
まさか、再び自分の脚で立てる日が来るとは。
老人は、フワリと体が浮き上がるような、そんな喜びに満たされました。
そうして、見開いて上げた目線の先。
そこには人だかりができておりました。
「奇跡だ」
人だかりから感嘆の声が起こります。
それを聞いて、老人はハッと我に返りました。
バシン、と乾いた音が響きます。
喜色も一転、錬金術師を睨むと、手にした杖で思いっきり打ちすえたのです。
(あくび)ふわぁ、失礼致しました。
マスター、眠くなってしまいましたね。
良い所かもしれませんが、今夜のお話はここまでに致しましょうか。
<左 近い 囁き>
明日のお話は、もーっと、面白いですわよ。ふふっ。