Track 4

「陰膳」

 “マーケット”から帰ってきて、数日経ったころ。 【セシリア】 「夕餉の準備が整いました」  軒先で剣の手入れをしていた俺の許に、セシリアがやってきた。 【セシリア】 「さあ、冷めてしまう前に中へお戻りください」 【男】 「ああ」  堅苦しい口調に、冷め切った表情。  あの日、少女――カロと朗らかに会話していた僧侶は、ここにはい  ない。  心の支えを失ったセシリアは、未だにふらつく足取りのまま。  己を支える肢を見つけることすら、……いや、探すことすらしない。  俺に対しても、機械的なやり取りを繰り返している。  そして食卓には、見慣れた光景が広がる。 【男】 「あの……僧侶様」  堪らず、俺は訊いた。 【セシリア】 「……? どうかしましたか?」 【男】 「いつも、三人分の料理が並んでいるようですが……。これは、一体  ……?」 【セシリア】 「……あぁ。貴方と私しかいないのに、食膳に三人分の料理が並べら  れている理由……ですか」 【男】 「ええ」 【セシリア】 「……これは、“陰膳”と呼ばれるものです」 【男】 「かげぜん?」 【セシリア】 「はい。私の故郷に伝わる、古い風習です」  聞いたことがないな。 【男】 「ほう。どんな意味があるものなんですか?」 【セシリア】 「……」  一瞬にして表情が翳る。 【男】 「……僧侶様?」 【セシリア】 「……はい。この“陰膳”には、勿論意味があります……」 【セシリア】 「その……意味は……」  言うのを躊躇っているのか、口を真一文字に閉じる。  悪い予感がする。 【セシリア】 「……一種の、おまじないみたいなものです」 【セシリア】 「――『旅をして、家を留守にしているものの無事を祈る』――、と  いう願いを込めた」 【男】 「……」  言葉を失った。 【セシリア】 「そうです、おまじないです」 【セシリア】 「留守を預かっている者が、その者のために同じ膳を用意して……、  こう祈るのです」 【セシリア】 「『無事、生きて帰って来れますように』と、そう願いを込めて……」  “陰膳”というものを聞いたのは今日が初めてだ。  その意味を知らなかったから今まで気にも留めなかったが……。  ……いや、気にはしていた。  だが、訊くことが躊躇われていた。  なにせ、いつもいつも当たり前のように用意するものだから、訊こ  うにも訊けなかったんだ。  彼女は、俺が来訪した当日から一人分を余分に、確かに用意してい  た。  それと彼女の口振りから察するに、これは今回に限ったことではな  いんだろう。  家に自分一人しかいなくとも、当たり前のように二人分を作り、当  たり前のように勇者の無事を祈る。  彼女は……勇者が旅に出ている間、毎日彼の分の食事を用意してい  たというのか。  甲斐甲斐しくも、その者に手を付けられることのない食事を用意し  ていたというのか。   それだけじゃない。  無事を祈る、と言ったか。  勇者は……もうこの世にいないんだ。  死んだんだ。  じゃあ、あれは誰に向けての夕餉だ……? 【男】 「その……『旅をしている人』、というのは……まさか」 【セシリア】 「はい、そうです。これは……」 【セシリア】 「――『勇者様』への、“陰膳”です」  目眩がした。  勇者は死んだ。  ……死んだんだ。  その使者たる俺がここにいて、女神様から頂いた剣すらここにある。  それなのに、この人は……。  未だに現実から目を逸らし、『勇者が生きている』という幻想を追  い続けているのか。  決してある筈のない未来を信じて、儚い夢物語に縋り付いて。  もはや、健気という域を超えている。  優しくも、狂っている。  呪<まじな>いなど、名ばかりだ。  これはもはや、悪しき呪いだ。 【セシリア】 「貴方には、勇者様が亡くなられたとそう伝えられましたが……」 【セシリア】 「もし、万が一……万が一、生きていらっしゃるのだとしたら」 【セシリア】 「私は、勇者様の御自宅を守る者として、勇者様が無事に……この家  まで帰って来られるよう、祈らねばなりません」 【セシリア】 「だって……生きて、……生きて、かえって……きてほしい、ですか  ら」 【男】 「っっ!! いい加減に――!」  目を覚ましてやろうと思った。  声を荒げても仕方ないと思ったが、それで彼女が正気に戻るなら、  いくらでも叫んでやろうと思った。  ……彼女の、泣き顔を見るまでは。 【セシリア】 「生きて……いきてっ、元気な……お姿で、また……私に……」 【セシリア】 「微笑んでほしい、ですから……っ」 【男】 「……」  彼女は正気だ。  きっと、全部解っている。  勇者が死んでしまったことも。  この捧げ物が勇者の許に届かないことも。  ……もう、自分に微笑んでくれないことも。  彼女は狂っているんじゃない。  子供のように、受け入れたくない現実から逃れようと駄々を捏ねて  いるに過ぎない。  支柱を失い、消えてしまいそうな自我を必死で掴み取ろうとしてる  んだ。  誰が、彼女を責められようか。  絶望の淵に立たされてもなお、勇者への想いを忘れずに懸命に生き  ようとしている彼女を、一体誰が責める?  責められるべきなのは、むしろ……。 【男】 「……それ」 【男】 「食べても、いいですか」 【セシリア】 「え……」 【セシリア】 「食べる……ですか? あなたが、これを……?」 【男】 「いやー、実は外でひと仕事してきたせいか、小腹が空いてしまいま  して。ははは」 【セシリア】 「あ、で、でも……これはお供えも」 【男】 「――頂きますっ!!」 【セシリア】 「あ」  非難の隙さえ見せない速さで白米を掻き込む。 【セシリア】 「……」  あっという間の光景に、セシリアは目をぱちくりとさせていた。 【セシリア】 「大食漢なのですね、貴方って……」 【男】 「まぁ、冒険者たるもの、食えるときに食っておかないといけません  から」 【セシリア】 「なるほど……。確かに、その通りです」 【セシリア】 「『軍隊の進軍は腹次第』とはよく言ったものです。冒険者も、肩書  きは違えと同じ《つわもの》であるのは同じこと」 【セシリア】 「私も、少し前まではそうでした」  瞳を閉じ、思いを馳せるセシリア。  彼女の見ている闇には、一体どんな映像が過っているのだろうか。  目蓋を上げたセシリアは、澄んだ表情で言葉を続けた。 【セシリア】 「では、次からは食事の量を増やすことにしましょうか。今まで“腹  八分”ならぬ、“腹五分”といった具合だったのでしょう?」 【セシリア】 「量を少し増やすことくらい造作ありません。貴方が無理に我慢なさ  る必要は……」 【男】 「……“陰膳”は、やめないのですか」 【セシリア】 「え」 【セシリア】 「“陰膳”……ですか」 【男】 「別に続けてもいいですよ。私への供給量が増えることになるだけで  すが」 【セシリア】 「……」 【セシリア】 「……くすっ。ふふふっ」 【セシリア】 「そうですか」  肩の荷が下りたような、柔らかな表情。 【セシリア】 「作っても、全部食べちゃいますか」 【セシリア】 「まったく、困りましたね」 【セシリア】 「……これでは、勇者様に向けての“陰膳”なのか、貴方に向けての  膳なのか、解りませんね。くすくすっ」 【男】 「……」  彼女が俺に向けた、初めての朗らかな笑み。  苦し紛れの笑顔ではなく、澄んだ気持ちが心から湧いてきたような、  純粋な感情。 【セシリア】 「はい、解りました」 【セシリア】 「“陰膳”は、もう作りません」 【セシリア】 「いくら作っても、貴方が食べてしまうのでは“陰膳”の意味があり  ませんから」 【セシリア】 「ふふっ……。貴方は、なかなか強引なところがあるのですね」 【男】 「あ、これは……失礼しました」 【セシリア】 「いえ、褒めているのですよ?」 【セシリア】 「……なんだか、勇者様を思い出しました」 【男】 「え?」 【セシリア】 「人の意見など聞かずに、自分の主張を押し通す。けど、不思議と押  し通された側は不愉快に感じない」 【セシリア】 「勇者様は、そういう特別な性質の持ち主でしたが、貴方も……似た  ものをお持ちのようですね」 【セシリア】 「まるで、勇者様に諭されている気持ちになりました」  ……なるほど。  勇者の面影を俺に投影したのか。  どうりで物わかりがいいわけだ。  勇者殿、様様だな。 【セシリア】 「……さあ。今度はゆっくりと食べましょうか。お替わり、しますよ  ね? ふふっ」  妙に楽しげなセシリアと、夕食を共にした。