Track 5

「決意」

 ある晩のこと。  水を飲みに階下の灯りを頼りに歩いていると、開け広げられた戸の  向こうにセシリアの姿を捉えた。 【セシリア】 「…………」  セシリアは微動だにせず、控え目に視線を夜空に向けていた。 【男】 「お隣、いいですか?」 【セシリア】 「ん……? あぁ、お隣ですか? くすっ、いいですよ。どうぞ」 【男】 「では、失礼して」  軒先にセシリアと並んで腰を掛ける。 【男】 「ハーブティ。飲みます?」 【セシリア】 「ふふふっ、またハーブティですか? 飽きませんね、貴方も」 【男】 「それは……うむ」  突然のからかい文句に口を噤む。 【セシリア】 「あぁ、いえ。頂きます」 【男】 「……最初からそう言えばいい」  持っていたカップを手渡す。 【セシリア】 「……ん。いい香りです」  セシリアはカップを鼻孔に近づけ、香りを愉しむ。  辺りは虫が鳴いていた。  涼しい夜風が体を撫でていく。  穏やかだ。 【セシリア】 「……落ち着きますね」 【男】 「そうですね」 【男】 「月、星。……そして、虫の声」 【男】 「なかなか風情があるじゃありませんか」 【セシリア】 「? ……もしかして貴方は、虫の声が好きなのですか?」 【男】 「ん? ええ、まあ」 【男】 「癒されるとか、耳に心地いいとか大層な理由はないんですが。虫の  声は好きですよ」 【セシリア】 「貴方は……益々……」 【男】 「……?」  俺の横顔を一瞥すると、視点を戻した。 【セシリア】 「いえ、なんでもありません」 【セシリア】 「……ご存知でしょうか? 『虫の声』が、世間一般ではどう評され  ているのか」 【男】 「……いえ」  聞いたことはある。  確か『虫の声』は、耳障りで鬱陶しい……簡単に言えば――。 【セシリア】 「――ノイズ。“雑音”だというのです」 【セシリア】 「確かに、騒がしい音かもしれません。この音がなければ夜は一層静  かですし、何より大抵の者は虫のことが苦手です」 【セシリア】 「苦手なものの鳴き声を嫌がるのも自然、と捉えて差し障りないでし  ょう」 【セシリア】 「……そんな“雑音”を『美徳』と捉えたのが、私の故郷でした」  セシリアの故郷は、辺境の小さな村だったはずだ。 【セシリア】 「虫の鳴く季節になると、時々こうして静かに耳を澄ますのです」 【セシリア】 「懐かしい気持ちと、穏やかな気持ち欲しさに……ついついここまで  足を運んじゃうんです」  屈託なく笑う。 【セシリア】 「僧侶になって、いつの間にか大僧侶になって……。慣れない苦労や  疲れが溜まりやすくなって……」 【セシリア】 「情けないことに、子供のころに戻りたい、と思うときがあるんです」 【男】 「へえ」 【セシリア】 「そんなとき、ここに座ってぼーっとするんです」 【セシリア】 「虫の声を聴いたり、風音を聴いたり……。雲のない晴れた夜には、  月がよく見えて」 【セシリア】 「そうしてると、勇者様が……」  流し目でこちらを見る。 【セシリア】 「ちょうど今の貴方のように、カップを持ってそっと隣に座るんです」 【セシリア】 「取りとめのない会話をしたり、一緒にせせらぎに耳を澄ませたり」 【セシリア】 「不思議なもので、そうしていると嫌なこととか悩んでいることとか、  ぱーっと忘れてしまうんです」 【セシリア】 「……くすっ、忘れるっていうのは語弊がありますね」 【セシリア】 「正しくは、心の整理がつく、ですか」  セシリアは、カップを持った手をぐっと持ち上げる。 【セシリア】 「『くよくよしてはいかん。前を向いて立ち向かえ!』……っていう  おじい様の声が聞こえるみたいです」 【セシリア】 「悩みを消すことは敵いませんが、迷いを消すことはできる」 【セシリア】 「こうしてここにいるだけで、そういった力を得ることができます」 【セシリア】 「自然の英気、といったところですか」 【セシリア】 「くすっ。自然に、……故郷に感謝。ですね」  今まで見られなかった無邪気な表情を、最近のセシリアはするよう  になった。  彼女の心は一歩ずつだが、確実に立ち直る方向に向いている。 【セシリア】 「……ご迷惑をおかけしました」  ポツリと言った。 【男】 「突然なんです?」 【セシリア】 「いつまでもくよくよして、下を向いて一向に前を向こうとしなかっ  た私を、色々と気にかけて下さって……」 【セシリア】 「こうしてお応えするのに、長い時間を要することになりました。  申し訳ありません」  なるほど、もう立ち直ったということか。 【男】 「ま、結果オーライですよ」 【セシリア】 「勇者様は、お亡くなりになりました。もう帰っては来ません」 【セシリア】 「死んだ者は、もう二度と帰って来ない。……こんなこと、とうの昔  に気付いていたはずなんですけどね……」 【セシリア】 「いざ自分に不幸が降りかかると、頭で考えればすぐに解るようなこ  とも解らなくなってしまう」 【セシリア】 「人の死に目に会うとは、酷なものです」  セシリアが勇者と旅をすることになったきっかけ。  それは、彼女の祖父が亡くなったことにある。  祖父は、セシリアを庇って死んだ。  村を襲った魔物の前に立ちはだかり、彼女を救ったんだ。  セシリアは、祖父を死に追いやってしまった自分を責めた。  祖父を守れなかった自分を責めた。  そして、自分の弱さに、臆病な心に袂を分かつ決意をした。  村を、仲間を。ひいてはすべての人々を守る強さを求めた。  セシリアが勇者の許に訪れたのは、そんな思いからだった。 【セシリア】 「……これからは、この町に尽力したいと思います」 【セシリア】 「勇者様が愛したこの町を、勇者様が護ろうとしたこの町を、今度は  ……私が護ります」 【セシリア】 「これが、きっと勇者様の遺志ですから」 【セシリア】 「こんなところで倒れていられません」 【セシリア】 「そんなことをしてこの町を廃らせてしまったら、貴方の言う通り、  勇者様はいつまで経っても浮かばれませんからね」 【セシリア】 「……今はまだ、勇者様の死を皆に伝えるときではありませんが……  いずれ、誰かが気付くでしょう」 【セシリア】 「そして、この町は『勇者』という支柱を失ったことに気付く」 【セシリア】 「混乱し、泣き叫ぶ者も出るでしょう」 【セシリア】 「そして、『勇者』の訃報が外に広がれば……この町は盗賊団や魔物  に狙われることになる」 【セシリア】 「この町は『勇者』無しでは存続できないのです。他の侵攻を許せば、  あっという間に潰されてしまいます」 【セシリア】 「混乱が混乱を呼び、治安の悪化は人々の流出を助長するでしょう」 【セシリア】 「穏やかな安泰も、ここまでです」  神妙な面持ちで夜空を見上げる。 【セシリア】 「私は……それを止めなければなりません」 【セシリア】 「こんなところで挫けて、手を拱いていては勇者様に笑われてしまい  ます」 【セシリア】 「いや、笑い事では済まないかもしれませんね。きっと……私があの  世に行っても、顔向けすらしてくれなくなります」 【セシリア】 「ふふっ。それだけは避けたいですからねえ。頑張らないとっ」 【セシリア】 「――ん! よいしょっ!!」  すっと立ち上がる。 【セシリア】 「はーっ。頭の中の霧が晴れたような気分です。使命を見つけたら、  私は止まりませんよ?」 【セシリア】 「くすっ、見ていてください。『僧侶を頼む』という勇者様の言付け  なんて、忘れさせてあげます」 【セシリア】 「私は、勇者様無しでも……貴方無しでも、勇敢に戦ってみせますか  ら」 【男】 「……そうか」  ……そうだったな。  お前は、いつも自分の生まれた意味を問うていた。  自分の使命を探していた。  時には『村を護ること』を使命とし、時には『この世の人々を救う  こと』を使命とし。  自分の無力さといつも向き合いながら、本当の使命を探していた。  そんなものあるはずないと笑ったこともあったが、こいつはめげな  かった。  無力であっても、意志だけは強かったんだ。  人々を説得する役はいつもこいつだった。  持ち前の意固地を発揮して、皆を納得させていたもんだ。  ……お前は、新しい使命を見つけたんだな。  それが、お前の生まれた意味を理由付ける使命であることを、俺は  切に願うよ。  【セシリア】 「……勇者様の人選は正しかったようですね」 【男】 「どういうことです?」 【セシリア】 「ボロ雑巾みたいになってしまった私を、きちんと立ち直らせてしま  いましたから」 【セシリア】 「勇者様に……勿論、貴方にも感謝しないと」 【セシリア】 「本当に、ありがとうございます――」  セシリアは、いつまでも頭を下げ続けていた。