遊戯「将棋」
◆3
「将棋」
ダイニングテーブルで本を読みふける優衣に近づく。
手に持つ正方形の板をテーブルに置き、向かいに腰掛ける。
【優衣】
「ん」
【兄】
「久し振りにやらないか?」
駒の入った箱をがらがらと揺らす。
【優衣】
「……将棋?
くす、いいわよ? ちょうど手が空いてたところだし。
ふふん、久し振りにやりましょうか」
【兄】
「よしきた」
ぱたんと文庫を閉じて脇に置くと、佇まいを整えた。
【優衣】
「しかし、あれね。
私もさほど将棋の心得があるわけじゃないけど……
兄さんって私より弱いのに、よく再選を申し込むわよね?
どうして?」
【兄】
「そうやって弱いって言われるからだろ!」
【優衣】
「ありゃ。クスッ、弱いって言われるの傷付いてたんだ?」
【優衣】
「だって、ルールを教えてもらっただけの私に、
何連敗もかましてるんだもの。知能指数に欠けると思うわ」
【兄】
「こんにゃろう、がたがた言いおってからに……」
【優衣】
「何はともあれ、まずは素人の私に勝ってから文句を言いなさいな?
ほら、始めましょう?」
箱の中から駒を取り出し、盤上に積んでいく。
一段目の真ん中から順に、玉、金、銀、桂、香と置き、
二段目に飛車角を、三段目に歩を置いていく。
【優衣】
「それじゃ、よろしくお願いします」
【兄】
「よろしく」
【優衣】
「んっ。先手は兄さんからどうぞ?」
【兄】
「うむ」
飛車前の歩を進める。
【優衣】
「ふむ……」
進めた歩に反応するように喉を鳴らす。
優衣が歩を進める。
構わず歩を進める。
優衣は王を動かした。
しめた!
表情には出さないように、歩を進める。
【優衣】
「む……」
一瞬、手が止まる。
それでも構わず歩を進め、優衣は俺の歩を取った。
迷うことはない。
すぐに飛車を進めて優衣の歩を取る。
【優衣】
「まぁ、そう来るわよねぇ……」
歩交換に焦る様子はなく、局面を見つめる。
【優衣】
「えーっと……?」
首を傾げて、余裕の表情の優衣。
【優衣】
「うー……んぅ……」
ジッと今後の展開を考える。
【優衣】
「ん、……んん……? あれ……」
苦々しい顔に変わる。
【優衣】
「ん……んぅ……。ここ、ね……」
金を角の横へ進める。
すかさず俺は角の前に歩を打つ。
【優衣】
「ん、……んん……後手後手ね」
またしばらくうんうんと唸りながら思考し、角を一つ上げた。
【兄】
「ふむ」
飛車の牽制。
一旦、定位置に飛車を下げる。
【優衣】
「……ふう。……さて」
攻めが一度終わったと安堵の息をする。
よしとばかりに肩を回して、飛車を動かした。
優衣が何をしようが知ったことではない。
俺は銀を動かす。
【優衣】
「……」
角の横にある俺の歩の前に歩を打つ。
邪魔だと思ったんだろう。
仕方ない、ここは歩交換といこう。
歩を進めて、と金に成る。
そのと金を優衣は銀で奪った。
再び俺は銀を進める。
優衣は飛車の前の歩を動かし始めた。
【優衣】
「…………」
ずんずんと進めてくる俺の銀を訝しむ。
【優衣】
「……なんだか、動きが……」
【優衣】
「ねえ、兄さん……もしかして、ちょっと勉強してきた?」
【兄】
「さあて」
【優衣】
「むぅ、とぼけちゃって……。
駒の動きを見れば一目瞭然だっていうのに……」
【優衣】
「ん、んん……一体何を狙って……」
呟いて、歩を進める。
俺の歩の目の前まで進んできた。
タダでくれてやるつもりはない。
俺も歩を進めて歩を奪う。
その歩を奥から飛んできた飛車に奪われる。
本来なら、ここで歩を指して飛車を牽制したいところだが……。
角の自由が利くこの状況は好ましいし、そのまま放置しておこう。
銀を動かして、角の前に陣取る歩を奪う。
【優衣】
「わっ、角が……むむむ」
優衣の角は俺の銀に睨まれる格好だ。
進めている飛車を活かしたいところだろうが、
今は角を安全圏に移動させることが先決。
角を一つ進め、銀の横につける。
【優衣】
「一旦、安全圏ね、うん」
すかさず俺は角の離れた陣地に向けて歩を打つ。
【優衣】
「……む、……むむむっ。そんなところに歩を……?
んんぅ、攻められてばかり……。ぅー……」
ぶつぶつと呟いて、目をくりくりとさせながら盤上を読む。
【優衣】
「……歩を取ったら銀が来て、銀を取れば飛車が…………ぅ、ぅぅ」
【優衣】
「…………」
角を活かすために、優衣は歩を取らずに銀を下げた。
その鬱陶しい角を、俺は角で取る。
【優衣】
「えっ……そこの角を、角で取るの?」
【兄】
「うむ」
【優衣】
「あぁ、そう……。
じゃあ……私も歩で角を取る」
納得のいかない顔で角を取る。
理由はすぐに解るさ。
奪ったばかりの角を、早速守備陣のど真ん中に向けて打ち込む。
【優衣】
「へ……。…………嘘、そんなところに角を打つなんてっ」
【優衣】
「……どこで、っ……どこで間違えた……」
【兄】
「まだかー?」
【優衣】
「ちょ、ちょっと待って。もうちょっと……ええと、えー……」
【優衣】
「ぅぅぅ……」
角から睨まれる銀を逃がす。
俺は香を取って馬に成る。
苦し紛れに金を下げ、俺は歩を進めてと金。
金は王に向けて逃げていく。
馬を動かして桂を取る。
【優衣】
「…………」
危険を覚えて、進めていた飛車を守備に回す。
俺はどんどんと金を進める。
優衣は銀を捨てて金を守る作戦を取った。
【優衣】
「ん……ぅぅ……」
苦々しい顔。
余裕の表情だったのは序盤も序盤、開始一分くらいのもの。
それ以降は後手後手の守りで攻め手がない。
無言で盤上を睨む顔は新鮮でいいな!
【兄】
「王手」
【優衣】
「…………」
声も発さない。
王を逃がして、やり過ごす。
守備一辺倒ではこちらの攻撃は止まない。
想定する通りに動く優衣は追い込まれていく。
【兄】
「王手」
【優衣】
「…………」
眉がピクピクと動く。
眉間のシワが深刻さを彩る。
王を下げる。
できた隙間に金を指す。
【兄】
「王手」
【優衣】
「…………」
局面は終盤。
逃げ場はない。
険しい顔で盤上を睨んでいた優衣の顔の力が抜け、下を向く。
【優衣】
「…………まいり、ました」
勝利が確定した。
【兄】
「っしゃああああごらあああ!! ざまーみやがれってんだ!!」
【優衣】
「っ、ああああ!! もうっ!!
ずるいっ、ずるいー!! 自分だけこっそり勉強してっ!!
こういうのは、『自分も勉強してくるから用意しとけー』
とか言うもんでしょう!?」
【兄】
「そんなんじゃ勝てないだろう?」
【優衣】
「ぐっ、ぬ、ぅぐ……ぐぐぐっ……。
奇襲で勝って……そんな勝ち方でっ、恥ずかしくないのっ?」
【兄】
「全くこれっぽっちも」
【優衣】
「っ、……ぐ……」
むすっとした顔で睨んでくる。
どうであれ、勝者は俺だ。
怯む理由などない。
【優衣】
「……もっかいやるわよ」
駒を並べ始める。
【兄】
「何回やっても同じだと思うぞー?」
【優衣】
「どうせ兄さんのことだもの、
初心者騙しの一辺倒な攻めしか覚えてないんでしょう?」
【優衣】
「二度も同じ手は食わないわ。ほら、準備して」
【兄】
「……」
正直、今の攻めは初見専用なところがある攻め方だ。
優衣の言う通り、俺は棒銀と呼ばれる今の攻め方しか知らない。
対策を打たれたら勝てるかどうか……。
いや、弱気になるな!
将棋の打ち方は学んだ! 勝てる勝てる!
【兄】
「よ、よぉし。いいだろう」
駒を揃え終える。
【優衣】
「よろしくお願いします」
【兄】
「よろしく」
【優衣】
「先手をどうぞ」
ぶすっとした言い方。
まだ機嫌は悪いままだ。
【兄】
「俺からでいいのか?」
【優衣】
「いいから。早く打ちなさいよ」
取り付く島もない。
諦めて歩を進める。
優衣も歩を進める。
続いて俺も歩を一つ前へ。
ここまでは先ほどまでと同じだ。
ここで優衣は、角を一つ動かした。
【兄】
「む」
向かいの歩まで二マス。
角が動いたことにより、歩を進めれば角にも睨まれる形になる。
これじゃ、ただ歩を献上するだけで交換にもならない。
【優衣】
「……どうしたの?
角を一つ動かしただけ……もう手はないの?」
【兄】
「……黙ってろ」
仕方ない、銀を進めよう。
銀を進めている間に、優衣は角の後ろに金と銀を固め、万全の形だ。
俺はと言えば、手前で止まっている自軍の歩を除けて銀を進める
……そういう算段だった。
だが、優衣が香の前の歩を進めたことにより打つ手が止まる。
【兄】
「……」
銀が動かせない。
銀を進めれば、敵陣に単独で出すことになる。
無意味に銀を献上だ。
……手がない。
【優衣】
「んー? また長考?
クスッ、さっきはスイスイ駒を進めてたのに……
どうしたのかしら?」
【兄】
「…………」
どう攻めていけばいいのか全く読めない。
一応は手数をいくつか用意してたんだが、
そのすべてが封じられている。
【優衣】
「……もうその手は食わないわ。
違う手を考えたほうがいいんじゃない?
……『あるなら』、だけど?」
【優衣】
「それと、攻め手ばかりで受け手が疎かなんじゃなーい?
兄さんは視野が狭いの。攻めるほうばかりを優先して、
こちらがどういう狙いで動いているのかを理解していない」
【優衣】
「だから、こんな盲点を見逃しちゃう」
角が動く。
【兄】
「……あ」
角の放射線上に飛車と銀がぽつねんと独立している。
しまった、攻め崩す方法ばかり考えてて守りがいない。
【優衣】
「はい、飛車と銀。
どっちも取れる位置……クスッ、どっちを残したい?」
【兄】
「…………」
飛車を下げる。
孤立した銀を角で取る。
【優衣】
「ふふん、まずは一つリードね」
【優衣】
「まぁ、攻め手一辺倒で守りが堅くない兄さんの布陣は、
攻めの銀ひとつ取られただけで、
もう守りに徹する他ないと思うけど?」
確かに、銀を失って俺は攻める手段を失った。
これから守備陣形を整えようとしても、
完成を待たずに優衣の攻撃が始まる。
防御の薄いところを突かれ、突かれ突かれ――
これじゃ、いつもと同じパターンだ。
【優衣】
「ほーら、はやくー。にいさーん?
まだ負けたわけじゃないから、ね?」
【兄】
「……ほい」
王をずらす。
まだ飛車角は残ってるんだ、勝ち目がないわけじゃない。
―
――
―
【優衣】
「王手」
あっという間だった。
逃げ道を作っていなかった守備陣はグダグダの撤退劇の披露する。
手持ちの駒もなく、王手をされれば
王を引くか金銀を寄せるしかない。
【優衣】
「王手」
【兄】
「……」
【優衣】
「ふふっ、そこは角の通り道よ、兄さん?」
【兄】
「……」
【優衣】
「それ取っちゃダメ。王手って言ってるでしょう?
ほら、王を守らないと」
【兄】
「……」
【優衣】
「はい、じゃあまた王手」
【兄】
「……」
【優衣】
「……♪」
首を傾げて喉を鳴らす。
【優衣】
「兄さん。何かお言葉は?」
【兄】
「……参りました」
【優衣】
「はいっ、お疲れさまーっ」
試合は終わった。
【兄】
「――だああああくそ!!くそがあああ!!」
【優衣】
「くす、ふふふっ、投了でございまーっす♪」
【優衣】
「ふう……ありがとう、兄さん。
良い暇潰しになったわ」
【兄】
「勝ち逃げするつもりか!」
【優衣】
「えー? くす、勝ち逃げだなんて、ひどい言い草ね。
対策を打たれたらへべれけなプレイになる兄さんが悪いんじゃない。
もう少し腕を磨いたら?」
【兄】
「ん、ぐ……」
【優衣】
「またの挑戦をお待ちしております。じゃねー」
【兄】
「くそぉ……くそおっ……!」