特別篇「優衣と学ぶ『睡眠心理学』」
◆5
「優衣と学ぶ睡眠学」
○導入部
【優衣】
「ん……どうしたの? 眠れない?」
【兄】
「んんむ、なんかな……」
【優衣】
「そう……。
ここ最近ずっとそうね。……不眠症かしら」
【兄】
「病気ってほどじゃないと思うが……」
【優衣】
「『病気じゃない』って思い込むよりも、
『病気だ』と思い込んで対策を講じるほうが賢明よ?
意図して健康的に生きる者を馬鹿にする人なんていないわ」
【兄】
「まあ、確かにそうだな」
【兄】
「しかし、病院に行って睡眠薬を貰うのも……なんかなぁ」
【優衣】
「……ん、よしっ、わかった」
【優衣】
「私が、睡眠改善法を兄さんに伝授するわ」
【兄】
「睡眠改善法?」
【優衣】
「人って、眠れなくなるとすぐに睡眠薬と直結させて
薬物療法に頼ろうとするの」
【優衣】
「それは最終手段。本当に病気の人が使うものなの」
【優衣】
「薬なんて頼らなくても、『人はどうやって眠りにつくのか』、
『どうして不眠になるのか』を理解すれば、
睡眠改善のために何をするべきか自ずとわかってくるはずよ?」
【優衣】
「ささ、兄さんの睡眠改善のために、
私の講義を聴いていってくださいな?」
○講義
【優衣】
「まず重要なことは、
科学的根拠に基づいた睡眠についての正しい知識を聞き、学ぶこと。
ただ知るだけではなく、きちんと理解して学習することが大切なの」
【優衣】
「繰り返し繰り返し私の説明を聴いて、不眠というものを学習して、
睡眠を阻害するような不適切な習慣という認識を植え付けるの。
それが一番重要なこと」
【優衣】
「そうすれば、自分のするべき行動が分かり、
気をつけて行こうという気持ちになるでしょう?」
【優衣】
「私が傍で、何度でも教えてあげるから、
それをちゃんと聴いて睡眠改善を継続するのよ?」
【優衣】
「では、まず……睡眠の衛生環境に必要なことを教えるわ」
【優衣】
「一、就寝前の刺激物は避けて、
眠る前には自分なりのリラックス法を行うこと」
【優衣】
「ここで言う刺激物はカフェインや喫煙ね。
カフェインは就寝前四時間の摂取制限、
喫煙は就寝前一時間の摂取制限よ」
【優衣】
「リラックス法は、個々人に合ったものを選ぶの。
読書や音楽、香木を焚いたりしてもいいんじゃないかしら」
【優衣】
「興奮とリラックスは違うから、
音楽もゆったりとしたものを選ぶのよ?」
【優衣】
「音楽がもたらす睡眠への影響を調査した研究のほとんどは、
『音楽は睡眠を促進しない、むしろ妨害する』
との見解を示しているわ」
【優衣】
「統計上はそうだーってだけで、個々人の差はあるから、
自分には音楽によるリラックス法が合っていると思うのなら、
それでオッケーよ」
【優衣】
「一、無理に眠ろうと努力するのではなく、
眠くなってから床に就くこと」
【優衣】
「寝つきが悪いと感じることが、不眠と思い込ませる原因にもなるの。
不眠ではないのに不眠症と疑ることが、
かえって不眠症を引き起こしてしまうのよ?」
【優衣】
「ベッドの中で『眠れない』と苦しむことはNG。
眠れないときはベッドから出て、眠くなるまで読書をしたりして、
それからまたベッドに潜る」
【優衣】
「そういう行動を取ることによって、
就床すると眠くなるという好循環を体に覚えさせることができるの。
憶えておいて?」
【優衣】
「一、光をうまく利用し、同じ時刻に起床すること」
【優衣】
「生体リズムに一番強い影響を与える環境要因は光なの。
体温が下がり始める夜22時から夜中の4時にかけて
明るい光にさらされると、生体リズムに遅れが生じるのよ?」
【優衣】
「つまり、体温が下がり始めるのが遅くなるの。
遅くなるということは、眠くなるのも遅くなる。
寝たいときに寝れなくなっちゃうわけね」
【優衣】
「逆に、日の出から午前10時頃に明るい光にさらされると、
生体リズムが早まるの。
つまり、夜に体温が下がり始めるのが早くなる。
早くなると言うことは、眠くなるのも早くなるわけ」
【優衣】
「早寝を心掛けるには、まず早起きを心掛けること。
早起きして、日を浴びる。そうすれば、自然と早寝に繋がるのよ?」
【優衣】
「一、睡眠時間に囚われないこと」
【優衣】
「人には『長時間睡眠者』と『短時間睡眠者』が存在してね、
適切な睡眠時間っていうのは人それぞれなの」
【優衣】
「だから、統計的に見て『七時間睡眠の人は死亡率が最低だった』
からといって、七時間に囚われることはないの」
【優衣】
「必要なのは、時間ではなくて質。
どれだけ熟睡感があるのかに気をつけて?
日中に眠気で困らなければ、睡眠の質としては充分よ」
【優衣】
「最後に一、眠りが浅いと感じたときは、
むしろ積極的に遅寝早起きを心掛けること」
【優衣】
「五時間以降の睡眠には、徐波睡眠と呼ばれる
熟睡を表す睡眠段階が含まれていないの」
【優衣】
「だから、早寝をしようと、寝つきの悪さを感じながら入眠して、
生体リズムを崩すよりも、
就寝時刻を延ばして眠気を高め、
速やかな入眠を図るほうが熟睡感は増すのよ?」
【優衣】
「あと、いつも寝る時間の二~四時間前はもっとも眠りにくいわ。
これは、眠気を感じるのが深部体温の低下に起因しているからなの」
【優衣】
「就寝時刻の四時間前は、一日で一番体温が高い時間帯なのよ?
だから、早寝をしようといつもよりも早い時間にベッドに潜っても、
いつまで経っても眠れないという感覚だけが意識に残って、
余計に不眠感が増してしまうの」
【優衣】
「生体リズムを維持しながら、
睡眠時間に囚われずに、質だけを意識する。
さっきも言ったけど、これが重要ってことね」
【優衣】
「それじゃ、復習」
【優衣】
「一、就寝前の刺激物は避けて、
眠る前には自分なりのリラックス法を行うこと」
【優衣】
「一、無理に眠ろうと努力するのではなく、
眠くなってから床に就くこと」
【優衣】
「一、光をうまく利用し、同じ時刻に起床すること」
【優衣】
「一、睡眠時間に囚われないこと」
【優衣】
「一、眠りが浅いと感じたときは、
むしろ積極的に遅寝早起きを心掛けること」
【優衣】
「これらは睡眠衛生教育と呼ばれるもので、
睡眠が、習慣要因――食事とか運動とか飲酒とか――と、
環境要因――光とか騒音とか温度とか――に影響されている、
ということを教えるものでした」
【優衣】
「さて、それじゃ、睡眠を促進する効果がある、
生体リズムに基づいた就寝前の活動についてお話するわね?」
【優衣】
「就寝時刻の三、四時間前から、
深部体温が低下し始めるとさっきも言ったと思うけど、
このときに軽い運動やぬるいお風呂に入ると入眠が促進されるの」
【優衣】
「これは、軽い運動や入浴によって、
体温が一時的に一℃くらい上昇したことが要因と考えられるわ」
【優衣】
「深部体温が頂点を迎える時間帯に、より体温を上げて、
生体リズムの体温低下に伴って、急激に体温が低下する。
この大きなふり幅によって、速やかな入眠が促されるってわけ」
【優衣】
「ただし、禁物なのは『激しい運動』と『高温浴』。
これらは、体温を上昇させるだけではなくて、
体を興奮状態にさせてしまうの」
【優衣】
「体温が高い状態が長く続いてしまって、
いつも寝ている時間になっても眠くならなくなるのよ?」
【優衣】
「これらの注意する点は二つ。
『深部体温が高い時間帯を狙うこと』。
『過度の運動、高温浴は避けること』」
【優衣】
「これらを守れば、睡眠を促進する効果が望めるわ」
【優衣】
「あと、入眠に必要なことは心身をリラックスさせること、
つまりリラクセーションなの」
【優衣】
「ていうことで、一つ、私からリラクセーションを伝授するわ」
【優衣】
「いい? 寝る前に必ず行う事、というのを決めるの。
そうすれば、『これから寝るぞー』という風に
体が自然とチェンジできるわけ」
【優衣】
「毎日行うことによって睡眠と関連付けが行われて、
緊張や不安を緩和し、リラクセーション効果をもたらすのよ?」
【優衣】
「この、寝る前に必ず行う事を『睡眠儀式』って言ってね、
たとえば、寝間着に着替えるだとか、日記をつけるだとか、
翌日の準備を整えるだとか、そういうことを指すの」
【優衣】
「この『睡眠儀式』も人によって様々でね?
兄さんも何か一つ、特別な『睡眠儀式』と呼ばれるようなものを
作ってみたらどうかしら?」
【優衣】
「たとえば……くす、絵本を読み聞かせてもらうだとか。
ふふっ、たまには童話を聞くのもいいんじゃない?」
【優衣】
「別に、集中して聞く必要はないの。
目的はあくまでもリラクセーション」
【優衣】
「私と会話をするんじゃなくて、ただ聞くだけ。
聞いて、物語を連想して、思いを馳せる。
不安や悩み、そんなものは存在しない世界へと意識を投じて……
静かに……いつの間にか眠ってしまう……」
【優衣】
「……それが、入眠に必要な過程なわけ。
ま、試しに一つ聞いていって」
一冊の本を手に取る。
【優衣】
「別に感想は聞かないから。眠ったかどうかの確認もしない。
もし、朗読が終わるまで起きていても、会話をしようとしないで」
【優衣】
「ゆっくりと、物語に思いを馳せて、反芻するの」
【優衣】
「眠ることには囚われないで。
眠ろうと努力しないで」
【優衣】
「眠らなきゃいけないって、そう思うことが入眠にとって大敵だから。
むしろ起き続けて、物語に思いを馳せることに集中するの」
【優衣】
「そうすれば、いつの間にか夢の中……くす、じゃあ、読むわね?」
【優衣】
「今日は……これ。
グリム童話より『野ばら姫』」
本を開き、こほんと咳払いをした。
―
――
むかーし、昔 ある国に
それはそれは大きくて、美しいお城がありました。
そこには 王様とお妃様が
仲睦まじく住んでいらっしゃいました。
王様とお妃様には、一つだけ悩みがありました。
それは、ご自分たちの間に子供ができないことでした。
「ああ、子供がほしいなあ」
「本当に。王様」
来る日も来る日も、お二人はそう言い暮らしましたが、
いつまで経っても 子供は産まれませんでした。
ある日のこと お妃様がお湯に入っていますと、
水の中から一匹の蛙が ぴょこぴょこっと上がってきて、
お妃様のほうを向いて、こう言いました。
「お妃様……」
「ご心配なさらないでください。
お妃様は、一年も経たないうちに
可愛らしい女の子を授かられるでしょう」
不思議な蛙の言ったことは、全くその通りになりました。
一年後のある日、王様とお妃様の初めての子供が生まれました。
それは 蛙の言った通り、とても愛くるしい女の子でした。
王様はたいそう喜んで、
「さあ、お祝いをしようじゃないか。
お酒とご馳走の仕度をせよ。
お城中に花を飾るのだ。
旗を高く掲げ、風になびかせよ。
ラッパを大空高く吹き鳴らし、
お招きの遣いを国中に走らせよ」
と、仰いました。
王様の命を受けて、遣いの馬は颯爽と お城を駆け出しました。
遣いの馬は、王様とお妃様の友だちの館に走りました。
遣いの馬は、王様とお妃様の兄弟やいとこの館に走りました。
それから、子供の生まれたお祝いにぜひとも来てもらいたい、
仙女の住まいに走りました。
仙女は、不思議な力のある言葉を使う女の人です。
王様が治める国には、十三人の仙女がいました。
しかし、遣いの馬は十二人の仙女だけをお招きして、
お城に帰ってしまいました。
「だって、仕方がないだろう?
お城には、仙女が使う金のお皿が十二枚しかないんだ」
しばらくして、お祝いの日がやってきました。
お城に招かれた 十二人の仙女は、
一人ひとり お姫様の前に進み出て、
不思議な力のある言葉を唱えて、贈り物にしました。
「私は、いつまでも変わらない真心をこの子に送りましょう」
「私は、一目見たら好きなる可愛らしさを、この子に送りましょう」
「私は、いつどんなときでも、着るもの、食べるもの、
住まう家に困らないようにしましょう」
こうして、十一人の仙女が唱えごとをしたときでした。
突然、大広間の扉が開いて、人が入ってきました。
それは、お祝いに招かれなかった十三人目の仙女でした。
その仙女は挨拶もしないで、大きな声で言いました。
「王様の娘は、十五の歳に死んでしまうのだ。
糸紡ぎの錘に刺されて、命を落とすのだ」
それを聞いて震え上がった王様 お妃様と、
招かれたお客たちをじろりと見渡すと、
十三人目の仙女は帰っていきました。
「……なんという、恐ろしい呪いでしょう」
まだ、唱えごとをしていなかった十二人目の仙女が進み出ました。
お妃様は、お姫様を胸に抱きしめてお願いしました。
「どうか、あの仙女の呪いを消してください」
「呪いを消してあげたいのだけれど……」
「私にはできません」
お城中の人がどよめきました。
「――しかし」
十二人目の仙女は言いました。
「呪いを弱くすることはできます。
王様のお姫様は死にはしません。
錘に刺されて、百年の間、眠り続けるのです。
このお城にいるものはすべて、眠り続けるのです」
お妃様は、仙女たちに頭を深く下げました。
王様もお辞儀をして、それからすっくと背を伸ばして言いました。
「この国のすべての錘を集めて、残らず焼き捨ててしまえ――」
――
そうして年月が経ち、お姫様は仙女たちの言った通り、
優しく淑やかで、賢くて、可愛い女の子になりました。
お姫様を見ると、誰でも途端に好きにならないではいられません。
お姫様が十五歳の誕生日を迎えたある日のことです。
王様 お妃様はお出かけで、
お姫様は一人、お城の中庭を歩いていました。
とことこと進んでいると、
お城の隅のほうにある古い塔の前にきました。
「知らない場所。……中に入ってみよう」
塔の中は薄暗くて、階段を上っていくと狭い部屋があり、
おばあさんが糸を紡いでいました。
「こんにちは、お婆さん。
そこで回っているの、なあに」
おばあさんは優しく答えました。
「これは『錘』ですよ」
お姫様は、初めて見た錘が気になって、手を出しました。
錘のとがった先が 指に刺さりました。
すると、もう わけもなく眠くなってしまって、
お姫様はそこにあった寝床に倒れ込みました。
眠気はお城の中の隅々まで広がっていき、
ちょうど帰ってきた王様 お妃様も眠り込み、
家来たちも眠り込みました。
厩の馬も、庭の犬も、屋根の鳩も、
燃えていた竃の火までもが眠り込みました。
動くものがなに一つないお城を、
生垣の野ばらがぐんぐん伸びて押し包んでいきました。
垣根の野ばらに包まれて、お城は屋根の上の旗も見えません。
「この中にお姫様が眠っているという話を聞いた」
と、やってきて中に入ろうとする者は、
まるで手のように動く野ばらに捕らえられて死んでしまいました。
何年も何年も経ちました。
恐ろしい死に方をした者たちの話を聞いて、
誰も野ばらをくぐって中に入ろうとしなくなった頃でした。
一人の王子様がこの国にやってきて、言い伝えを聞きました。
「なるほど。
でも、私は野ばらの中のお城で眠るお姫様に会いたい」
王子様は、今 大きな花を一面につけている、
野ばらの垣根につかつかと歩いていきました。
すると、野ばらはひとりでに動いて道を開け、
王子様が入るとまた合わさって閉じました。
このときがちょうど眠り姫が目を覚ますはずの日、
百年という年月が過ぎたところだったのです。
「引き返すものか」
王子様は、お城の庭に入りました。
何もかもじっと動きません。
台所の料理人は手伝いの子供のほうに手を伸ばしたまま。
蠅は壁に止まって、じっと動きません。
王子様は構わず進んで、古い塔に上りました。
そこには、野ばらに囲まれて お姫様が眠っていました。
じっと見たまま、もう目が離せないほど美しいお姫様です。
王子様は一目で心を奪われました。
王子様は屈んで 眠っているお姫様に口づけをしました。
お姫様は、ぱっちりと目を開け、
王子様を頼もしいと思い、じっと見つめました。
二人が一緒に塔を下りていくと、
すべてのものが目を覚ましました。
竃の火はまた燃えだして、ご馳走を煮ました。
王子様とお姫様は結婚式を挙げ、二人はずっと幸せに暮らしました。
――
―
【優衣】
「――おしまい」
ゆっくりと本を閉じて、脇に置く。
兄さんに目を向けたけど、起きているかの確認はしない。
約束通り、声を掛けずにゆっくりと布団に潜る。
……今から手を握るのは、反則だろうか。
もし握り返されたら、
起きていたのに眠りを妨げることをしてしまったと、
きっと後悔する。
仕方ない、肩に顔を寄せるので我慢しよう。
【優衣】
「お休みなさい、兄さん……」