Track 5

おまけ「優衣・その1」

◆おまけ・その1 「とある深夜での優衣・その1」  ………… 【優衣】 「ん……、っ……んん……はふ……」 【優衣】 「兄さん……? ……にぃさーん……」 【優衣】 「…………ノンレム睡眠中の呼吸運動は、胸部優勢。  呼吸は規則的で、呼吸数もレム睡眠中より約十五パーセント減少  する」 【優衣】 「ん……いまなら、外部刺激に対して散漫になってるはず」  睡眠中に現れる見張り番機構を刺激しないように、ゆっくりと体を  起こす。 【優衣】 「くす……にいさん……。……ちう」  眠る兄の頬に、触れるだけの軽いキス。 【優衣】 「…………」  息を吐き、至近距離で寝顔を見つめる。 【優衣】 「妙な習慣になっちゃったわね……」  兄さんが深い眠りに入ったことを確認してから、頬へのキス。  この行為に特別な意味はない。  この前、中途覚醒したときにたまたま兄さんの寝顔を見て……  なぜかはよくわからないが、キスをしたくなったのだ。 【優衣】 「眠った兄さんのほっぺに、キス……。  ふふっ……兄さんが知ったら、どう思うかしら?」  単純な疑問。  考えても答えは出ない。  キスをしたい衝動の正体すらわからないんだ、  兄さんの対応なんて見当もつかない。  ただ、驚くことは確かだろうけれど。 【優衣】 「…………くちびる……」  視線が釘付けになる。  初めて衝動に駆られたときも、最初は唇に視線が行った。 【優衣】 「…………」  『してはならない』  『駄目だ』  そう思うと、胸がズキズキと痛む。  哀しいわけでもないのに涙が出そうになる、不思議な痛み。  妙に心地よくて、まるでその痛みを味わうためのごとく、  私は唇へのキスは行っていない。  心の麻薬――  自分で勝手にそう呼んでいる。  麻薬という名を解すように、哀しくはないのだけれど切なくなると  いう副作用を持っている。  その副作用が、また胸の痛みを助長させる。 【優衣】 「……はぁ」  息を吐きながら体をベッドに落とす。  すぐ傍にある兄さんを腕を抱き、肩口に顔を寄せた。  じんわりと温かい、兄さんの温もり。  それは、なんとも言えない幸せをもたらしてくれる。  なぜだろうか?  人には、無自覚のものも含め、睡眠儀式というものを持っているも  のだという。  睡眠儀式とは、寝る前に行う習慣化された行為のことをいう。  例えば、入眠前に子供に絵本を読み聞かせることや体を規則的に叩  くことを指し、子守唄もこれに当たる。  成人において睡眠儀式の形態は多様になり、睡眠促進への因果関係  は明快ではなくなるが、普段どおりの枕を使うことも睡眠儀式と呼  ぶという。  心身の緊張や不安を緩和する効果があれば、それは睡眠儀式と呼ぶ  に相応しい。  ともすれば、私にとって兄さんとの添い寝は睡眠儀式なのかもしれ  ない。  いや、きっとそうだろう。  兄さんの使う布団で身を包み、隣りに兄さんがいて、温もりのある  腕を抱きしめて眠る。  私はそれらの条件の下、習慣化した動作で睡眠体勢に入ることによ  って、穏やかに豊かな睡眠を行うことができている。  私にとって、兄さんそのものが睡眠儀式なのだ。  でも、それは小さいころに卒業しておかなければならないものだっ  た。  子供は母親の代わりをぬいぐるみに見つけ、それを傍に置くことで  不安を解消するのだという。  そうして様々な紆余曲折を経て大人になり、一人ひとりさまざまな  睡眠儀式を持つに至るのだ。  だけど、私は構わず兄さんの部屋で寝ることを定期的に続けている。  幾度となく諭されてきたが、全く聞く耳を持たなかった。 【優衣】 「私の前から……絶対に、勝手にいなくならない。  だから、子供じみた習慣を改善する必要はない」 【優衣】 「冷静に考えてみれば可笑しなことなのに。  ……頭ではわかっていても、結局のところ、体を支配しているのは  身体であって心ではない」 【優衣】 「イシキは後付け、か」  人間に自由意志は存在しない。  肉体が選択したものを、合理的にあたかも自分が選択したかのよう  に錯覚しているだけ。  ……だから、兄さんを前にすると胸が痛むという体の異変を、  私のイシキは理解することができないんだ。                      合理化する術を、表現を、言葉を知らない。 【優衣】 「……未熟。経験が足りないってこと?  ははは……、そういった意味では、兄さんのほうが先達ね。  馬鹿にできないわ」 【優衣】 「……兄さん……?  お願いだから……勝手に、私の前からいなくならないでね……?」  …………